マタイ16:13-20
「主は神の御子、御独り子であって」とニケヤ信条はイエス・キリストについての 信仰を表現しています。これは、ナザレのイエスを「神のようにすぐれた人」と信じ ることでも、また、特殊な霊力をもった「神が宿る人」と信じることでもありません。 ナザレのイエス、福音書に記されているような生き方をし、十字架の死を遂げ、三日 目に復活した主イエス・キリストは、その存在の本質において「神の子」であると信 じ告白しているのです。ここに福音の核心があり、このことを信じることのほかは、 命と救いにあずかることは出来ないと言う主張でもあります。 この信仰をただ鸚鵡返しに繰り返すだけではわたしたちの信仰の告白にはなりませ ん。反対者や敵対者を見つけ出して議論することによっても、この信仰が告白する生 命的な事態にあずかることはできないでしょう。「イエスは神の子」と言う告白がど のようなところから出てくるのか、それは、聖書の証人から深く聞き取り、またこの ような告白をする共同体(礼拝する教会)のなかで、この告白を共同する経験を重ね ることによって了解されてくることです。聖霊が教えることです。ピリポ・カイサレ アの泉のほとりで主イエスが弟子たちに「あなたがたはわたしを誰と言うか」と尋ね、 ペトロが、「あなたこそ、生ける神の子メシアです」と答えた時、そこで何が起こっ たのかを思いめぐらしてみましょう。このような信仰の告白は、主イエスの問いかけ から始まっています。主イエスの存在の本質は、いつも一緒にいる弟子たち、その奇 跡や慰めに満ちた愛のことばや業を見聞きしているからと言って、誰にも分かると言 う性格のものではありません。それは隠された主の本質を正しく知ることを望んでお られるのは主です。正しく答えることによって、主との正しい関係、確かな絆ができ ます。そのことを主が望んでおられます。ペトロが「あなたは神の子、メシア」と答 えたとき、主は「あなたはさいわいだ」といわれました。主を正しく理解し、その喜 びも苦しみも存在の本質を知ることによって分かち合う仲間を得ることは、「主にと ってさいわい」ではなかったでしょうか。しかしさいわいは、主イエスの方にではな く、告白するペトロの方にあるのです。それは、主イエスの存在の奥義を知ることに よって、それは告白する者となるからです。主イエスの神の子としての聖性がペトロ のものとなり、それは巖のように不動のものとなります。わたしたちが主をキリスト と告白するときに生じる関係もそのようであり、そのようにさいわいにあずかります。