07月06日
2003年7月6日

「光からの光であるキリスト」

イザヤ60:1-7、ペテロ・二1:16-21


 ニケヤ信条は、主イエス・キリストについて「光からの光」と信じ告白します。こ

れは、主イエスが「まことの光」であって、主に従う者は闇の中を歩くことはなく、

命の光をもつ、ということを信じ、そのことをわたしたちの生活の中で体験するだけ

ではありません。主イエスは永遠の光である父なる神と同質の方であるという、御父

と御子との関係の在り方がこれによって示されています。主イエスが、「永遠の神で

ある御父に似たもの」、あるいは「神のかたちに似せて造られた者」ではなく、御父

と御子が本質的に一つである、と。古代の教父たちは三位一体を説明するときよく太

陽の光をたとえに用います。光源となる光、光源から出る光線、ものに反射してわた

したちの目に見える光、この三つは同じ光であって分割することはできません。しか

しそれぞれに区別することはできます。そのように御父と御子、そして聖霊は一つで

あり三つなのだ、というわけです。主イエスについて「光からの光」と言い表される

のは、永遠の光である御父と一体であると信じることが肝心のこと、これを曖昧にす

ると私たちの救いは曖昧なものになるという認識があるからです。主イエスを通して

示された愛の業、罪の赦し、復活が、神の部分的な表示にすぎず、その面もあるがま

た他の面もあるといったことであるなら、神の救いは完全にキリストによって表され

たものとはなりません。「わたしを見たものは父を見たのである」と主は語られます。

主の存在と御父とは完全に一つであって、主が罪の赦しのためにご自身の命を与えて

くださる時、そこで成し遂げられたあがないは永遠の神の前では一部だけのもの、条

件付のものであるなら、わたしたちが主を信じることも留保付きのものになります。

「御子は、神の栄光の反映である、神の本質の完全な現われであって、万物をご自分

の力ある言葉によって支えておられます。」(ヘブライ1:3)このように主イエス

の内にある光を見ることができるまでわたしたちの心の目は開かれなければなりませ

ん。「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇る時まで、暗いところに輝く

ともし火としてどうかこの預言の言葉に留意してください」と迫害の中にあったキリ

スト者たちが互いに励ましあったのは、荘厳な栄光の中から「これはわたしの愛する

子。わたしの心に適う者」という声を聞いたこと、この光の体験でした。


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