ヨハネの手紙2:18-27
ニケヤ信条はイエス・キリストについて「まことの神からのまことの神」と告白し、 父である神と御子であるキリストとの関係を明らかにします。キリスト者の信仰は御 父と御子の交わりにあずかり命と喜びにあふれることであるならば、その交わりのあ りようについて御言葉から真剣に聞き、性格に応答することが求められています。 わたしたちが礼拝で用いているニケヤ信条の原型になった「原ニケヤ信条」(32 5年のニケヤ公会議で制定された信条)では、信条の最後に次の言葉が付け加えられ ています。「彼がいなかった時があったと言う者、彼が生まれる以前には存在しなか ったと言う者、神の御子は神とは別の本質を持つもの、造られた、変化する、無常の 者と言う者に、公同の教会はアナセマを宣言する」と。「アナセマ」とは「のろい」 で永遠にわたる神からの断絶を宣言することを意味しますから非常に激しい言葉でそ のように言う者を退けています。そこには、アレイオス主義と呼ばれる異端、イエス・ キリストはわたしたちと同じようにはじめと終わりのある存在、永遠性を持つような 者ではないと主張する者がいます。また、その反面、二世紀の初めにはサベリウス主 義の異端があり、神は父、子、聖霊と言う三つの名称をもつ一つの本性、と主張しま した。ニケヤ信条でキリストを「まことの神よりのまことの神」と表現しているのは、 あのナザレのイエスが、「神に限りなく近い存在」でも、「神と人間との中間的存在」 でもなく、御父と同質の方と認識し告白しなければならない、ということです。また、 御父、御子、聖霊の位格の独自性を曖昧にし、単に名称の違いだけにすることによっ て御父と御子との関係を見えなくしてしまう考えを退けました。「神はそのひとり子 を与えてくださったほどに世を愛してくださった」というとき、御父と御子の関係は 創造者と被造物の関係ではないし、また、単に名前の違いと捉えたのでは何も理解し たことにならないからです。 御父と御子との関係を厳密に表現しようとする生きた信仰を理解するためには、こ れがどれほどの矛盾と緊張を含んでいることを敢えて語ろうとしていることに気づか なければなりません。まことの神よりのまことの神は、「御子の死によって神と和解 させてくださった」と語られます。罪人に自らを死に引き渡す神です。