詩編2:1-12;ヘブライ2:5-18
ニケヤ信条はわたしたちが信ずべき主イエス・キリストは「造られたものでなくて 生まれ」た方であると告白します。「まことの神よりのまことの神」や「父と同質」 と一連の言葉によって御子イエスと父である神との関係性について繰り返しその一体 であることが強調されます。 さて、「造られる」と「生まれる」との違いはどこにあるのであほう。家を造る、 料理を作る、会社をつくる、と「つくる」は、作る、造ると両方の漢字を使いますが、 「広く一般には「作」を使い「造」は主として大規模で工業的なもの、有形のものを こしらえる場合に使う」と辞書にあります。これにたいして「生まれる」は生物的な 出生を意味しますが、植物は「生える」、卵は「孵る」で、動物や人間は「生まれる」 です。英語では母が子を産むのはbear、父が子を設けるのはbegetと使い分 けます。「生まれる」という生物的な現象のうちにひそむ不思議なもの、人為を超え ていることについて注意が向けられています。ニケヤ信条では「生まれる」は、「代 々に先立って父から生まれ」と「造られたものでなくて生まれ」と二回使われます。 使徒信条では「処女マリヤより生まれ」と告白されているところを「ニケヤ信条では 「聖霊によりおとめマリアより受肉し」となっています。主イエス・キリストの生ま れるのは父からであって、御父との一体性がとりわけ強調されていることはこれによ っても分かります。このように言葉を重ねることによって、父と同質」であることを 揺るがしようのないものにしようとしているのです。 主イエスが「父と同質」であることが強調されることによって、今度は、その御子 イエス・キリストが「まことの人」となるその秘儀のコントラストがいよいよ鮮やか になります。新約聖書の使信はまさにそのことを告げています。ヘブライ人への手紙 では、はじめに「御子は、神は栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、 万物をご自分の力ある言葉によって支えられてあられます(1:3)と御父との一体 性を語った後、「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、 民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じにならねばならなかったのです」 (2:17)と語ります。神の側のこの運動がわたしたちの「救い」となる、この秘 儀を明らかにしているのです。