ペテロの手紙T1章3−9
ペテロの手紙は、洗礼を受ける人への励ましとすすめのことばを書いたものだと 説明する人がいますが、確かに、キリスト者としてこの世の荒波を生き抜いていく ために必要な心備えが書かれています。キリスト者をある共通する気分=志気へと 同調させています。この手紙に於いて語られるキリスト者のこの世を生きる基本的 な気分は、警戒や用心ではありません。悲しい自己犠牲でもありません。喜びです。 「あなた方はキリストを見たことはないのに愛し、今見なくても信じており、言葉 では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」とキリスト者の状態に ついて言い表しています。 この喜び、「言葉に言い尽くせないすばらしい喜び」はわたしたちの自然の感情 がもたらす喜びではありません。何か欲しいものを手に入れ、何か欠けているもの が満たされ、何か目標が達成されたような喜びではありません。キリスト者がその 中に生きている喜びは、わたしたちの体の死とともに消滅するような喜びではなく、 死んでも尽きないような喜び、聖霊によってわたしたちの根底が照らされ、確かに されるような喜びです。それはわたしたちの中にあるものから出てくるものではな く、神のキリスト・イエスによる約束から出てくるもの、みことばにおいて約束さ れたことを心に受けとめ、信じるところから来る喜びです。我らの罪のために十字 架にかかり、三日目に復活されたイエス・キリストが共にいますことに安んじて生 きるところからくる喜びです。 このような喜びを知っている人は、「神の憐れみによって新しく生まれた人」で あって、「生きた望み」を与えられた人、「朽ちず、汚れず、しぼむことのない天 の財産を受け継ぐ人」といわれています。どうして「新しく生まれた人」なのでし ょうか。それは、このような喜びは、自然の感情が成長し成熟していけば獲得でき るようなものではないからです。神の憐れみによりキリストの命にあずかって新し く生きるときに与えられる感情であるからです。また、どうして「生きた望み」な のでしょうか。それは試練の中でも、苦しみを受ければ受けるほど喜ぶという性格 をもっている望みに根ざしているからです。その喜びが出てくるところは、人を生 かす力を持った希望、復活の命に根ざして、生きる力を与える希望であるからです。秋山牧師の説教集インデックスへ戻る