08月10日
2003年8月10日

「父の持っておられるものはすべてわたしのもの」

ヨブ記16:9-17、ヨハネ福音書16:4-15


 代々のキリスト教会が神事受け継いできた三位一体の信仰は、「イエス・キリスト

は主である」という告白、この方以外に救いはないとの確信を、内外の異なる信仰か

ら峻別するためにみ言葉に導かれて確立されたものです。「御子が御父と同質」とい

う表現も、主イエス・キリストが一時的な霊感に導かれて神的な働きをしたという考

えや、神が人間の姿を借りて働いたのだという考えを退けて、あのナザレのイエスが

神の全面的な意志の表示であり、神の道そのものだということをあらわそうとしてい

ます。

 このような信仰はどこから来るのか、旧約のヨブ記を読むと、そこには不思議な神

との向かい合い方があるのに気づきます。神に試みられて苦悩するヨブ。人間として

の誇りと生きる喜びのすべてを奪い去った神はヨブの敵です。ところが敵である神に

向かってヨブは「このような時にも、見よ、天にはわたしのために執り成す方、わた

しの友、神を仰いでわたしの目は涙を流す」(16:20)といいます。神の中に別

の顔を持った神を見ているのです。別のところでも、「神がわたしに非道なふるまい

をし、わたしの周囲に砦をめぐらしている」と自分の苦悩の事態がどこから来るかを

見ていますが、そのヨブが「わたしは知っている。わたしをあがなうものは生きてお

られ、ついに塵の上に立たれるであろう」(19:25)と驚くべき希望の持ち方を

指し示します。ヨブは主イエス・キリストを見ているわけではありませんが、人間の

苦悩の極限から、怒りの神の中にあがないの神を仰ぎ見ることができるという信仰を

語ります。これは下からの三位一体の神を仰ぐ道です。

 新約のヨハネ福音書では、主イエスの決別の説教で、「父が持っておられるものは

すべてわたしのもの」であるから、何でもわたしの名によって願いなさい。そうすれ

ば与えられる」と語られています。「わたしが行けば父は弁護者をあなたがたのとこ

ろに遣わしてくださる。・・・弁護者は真理の霊であって、その霊によってあなたが

たを導いて真理をことごとく悟らせてくださる」と。父・子・聖霊が一致して、その

交わりの中に御子を信じるものをもあずからせ、その義と平和と命を与えてくださる

と約束してくださいます。神の本質からの運動にわたしたちの救いの根拠があるので

す。これは、上からの三位一体の神が示されている道です。


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