列王記17:1-16;フィリピ2:6-11
ニケヤ信条の第二項、主イエス・キリストを信じることについての告白の後半部の 学びに入ります。「主は人間であるわたしたちのために、わたしたちの救いのために ・・・受肉された」ことについてです。神の御子イエスがまことの人としてわたした ちの間に宿られたことを、「受肉」と表現します。この信仰がキリスト教信仰のもっ とも特徴的なところで、「イエス・キリストが肉をとって来られたことを公に言い表 す霊は、すべて神からでたものです」といわれ、このことを言い表さない霊は「反キ リスト」と言われる(1ヨハネ4:2)ということですから、ここに真のキリスト教 信仰と、そうでない偽りのものとの分かれ目があるということです。受肉の神秘に触 れ、その恵みに圧倒され、そこから生きはじめることなしにはキリスト者の生活はあ りません。受肉の神秘に触れるということは、ただキリスト・イエスの人間性に親し みをおぼえ、共にいる方として慰めや励まし、生きる方向を示されるということでは ありません。また、超人的な神とあがめることでもありません。真の神が真の人とな ったということ、「まことに、彼は神であることから人となることへの無限に遠い道 を行きたもうた。罪人を捜すために、彼は道を行きたもうた」(キルケゴール)とい う、この「無限に遠い道」の恵みを認識することです。 主イエスが人間となられたことについて、聖書は「現れた」とか「来られた」と表 現するかたちや、「神ははとり子をお遣わしになった」と言うように「遣わされた」 「送られた」と御父との関係でその存在の意味が語られることのほかに、主の時間と 空間における存在について、「降られた」、「低くなられた」、「貧しくなられた」 と表現します。フィリピの「キリスト賛歌」の自分を無にして僕の身分となったと表 現されるのはその代表です。主の人間としての生と死の全体がそのような主の決意、 意志に貫かれていることを表しています。これは、一時的な決意ではありません。生 全体が「低く」「貧しく」、「罪を取り除くために、・・・罪深い見区と同じ姿」に なられたのです。「キリスト賛歌」では、この主イエスの受肉が、「へりくだって、 互いに相手を自分より優れたものと考え、めいめいが自分のことだけでなく、相手の ことに注意を払いなさい」という、日常的な生活の指針となっています。わたしたち の生全体が、この受肉の生によって変えられるのです。