08月31日
2003年8月31日

「遠き道」

列王記17:1-16;フィリピ2:6-11


 ニケヤ信条の第二項、主イエス・キリストを信じることについての告白の後半部の

学びに入ります。「主は人間であるわたしたちのために、わたしたちの救いのために

・・・受肉された」ことについてです。神の御子イエスがまことの人としてわたした

ちの間に宿られたことを、「受肉」と表現します。この信仰がキリスト教信仰のもっ

とも特徴的なところで、「イエス・キリストが肉をとって来られたことを公に言い表

す霊は、すべて神からでたものです」といわれ、このことを言い表さない霊は「反キ

リスト」と言われる(1ヨハネ4:2)ということですから、ここに真のキリスト教

信仰と、そうでない偽りのものとの分かれ目があるということです。受肉の神秘に触

れ、その恵みに圧倒され、そこから生きはじめることなしにはキリスト者の生活はあ

りません。受肉の神秘に触れるということは、ただキリスト・イエスの人間性に親し

みをおぼえ、共にいる方として慰めや励まし、生きる方向を示されるということでは

ありません。また、超人的な神とあがめることでもありません。真の神が真の人とな

ったということ、「まことに、彼は神であることから人となることへの無限に遠い道

を行きたもうた。罪人を捜すために、彼は道を行きたもうた」(キルケゴール)とい

う、この「無限に遠い道」の恵みを認識することです。

 主イエスが人間となられたことについて、聖書は「現れた」とか「来られた」と表

現するかたちや、「神ははとり子をお遣わしになった」と言うように「遣わされた」

「送られた」と御父との関係でその存在の意味が語られることのほかに、主の時間と

空間における存在について、「降られた」、「低くなられた」、「貧しくなられた」

と表現します。フィリピの「キリスト賛歌」の自分を無にして僕の身分となったと表

現されるのはその代表です。主の人間としての生と死の全体がそのような主の決意、

意志に貫かれていることを表しています。これは、一時的な決意ではありません。生

全体が「低く」「貧しく」、「罪を取り除くために、・・・罪深い見区と同じ姿」に

なられたのです。「キリスト賛歌」では、この主イエスの受肉が、「へりくだって、

互いに相手を自分より優れたものと考え、めいめいが自分のことだけでなく、相手の

ことに注意を払いなさい」という、日常的な生活の指針となっています。わたしたち

の生全体が、この受肉の生によって変えられるのです。


秋山牧師の説教集インデックスへ戻る

上尾合同教会のホ−ムペ−ジへ戻る