3月9日
1997年3月9日

「まことの安息を与えるために」

マルコによる福音書2章23−3章6


 神の国はこの世界にどのように来るのでしょう。「狼は子羊と共にやどり、ライ

オンが小さい子どもに導かれる」という神の国のイメ−ジは美しい。しかし現実的

な世界の中ではこのようなイメ−ジは現実逃避です。主イエスは、「神の国は近づ

いた。悔い改めて福音を信ぜよ」と語られました。主イエスはどのようにこの現実

世界の中で神の国の到来を現しているのでしょう。

 そのひとつの現れが、主イエスが町々村々をめぐり歩いて病人を癒やし、障碍の

ある人を回復されたことにあります。聖書に書かれている奇跡物語はきわめて簡単

なことです。助けを今必要としている人々に神の救いが臨んだということです。し

かし、この癒やしや回復もまた夢のような世界です。これらのことは現実世界の中

で何を意味するのでしょう。その奥行きと波及する力の広がりを教えられるのが主

イエスの安息日での癒やしや回復の記事です。主は安息日だけに癒やしを行われた

のではありませんが、何の労働をしてはならない安息日にも癒やしを行われました。

そして、それが宗教的指導者たちの激しい敵意と怒りを引き起こし、十字架への道

を進ませることになりました。イエスは、しかし、あえてこの日に癒やしと回復の

働きをし、はげしくその枠に挑んでいるのです。

 安息日は神と人間の関係が回復される日、イスラエルの選びを確認する日、休息

と喜びの日。すべて造られたものに祝福が告げられる日です。しかし、現実には安

息日になっても安息が与えられない人がいます。この人々はどう考えたらいいでし

ょう。安息日が神の救いと祝福を確認する日にならない人々、18年間も病の床に

ある人、生まれながら目の不自由な乞食・・・。これらの人々をイスラエルの社会

は「罪人」として共同体の交わりから排除しました。安息日をもてないのは罪の故

だと。人々に安息を与える制度は、それがあるために安息を切実に必要とする人に

は、二重に安息から排除されることになります。わたしたちの行う「良いこと」の

現実はこれによって実に鋭くえぐり出されています。主イエスはここで「安息日は

人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」と語られ、また「人

の子は安息日の主である」と語られて、激しい痛みと怒りをもってこのような安息

に安住している事態を打ち破り、痛みを持っている人に真の回復をもたらします。

それはイエスを十字架への道へと進ませることになります。まさに主は、それを引

き受けられたのです。罪人のために。
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