ホセア書3:1-5;ローマの信徒への手紙8:1-11
主イエス・キリストの受肉の神秘について、それは、「わたしたちの救いのため」 と告白します。では、わたしたちはどのような救いにあずかるのでしょうか。 そのことを考える前に、主が人間となられたことを「受肉」と表現しますが、そこ で「肉」と称される人間の事態を聖書はどのように捉えているかをローマ8:1−1 1によって確認しましょう。10回も「肉」という言葉が使われていますが、そこで は、「肉の弱さ」「罪深い肉」「肉の思いは死」「肉の思いに従うものは神に敵対し ており、神の律法に従っていない」などと記されます。「肉」は肉体を持つ人間のこ とではなく、罪によって神に敵対し、弱くなり、本来の姿を失い「罪と死の法則」の 下にある人間の実相をとらえています。「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されて います。・・・わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行 せず、かえって憎んでいることをするからです」というように、まことにわたしたち のただ中にある隠された最も弱い人間の心、生き様をあらわしています。神の御子の 「受肉」は、まさにこのような「肉」を引き受けられたことを意味します。何と驚く べきことでしょう。神と本質を一つにするものが、神に敵対するものになった、神の 御子が罪深く、弱く罪と死の法則の下にあるものとなった。それが「わたしたちの救 いのために」というのです。そこでは最早「救うもの」と「救われるもの」は向こう 側とこちら側、非難するものと非難されるものの対極の構造にはなっていません。救 うもの自身が救われなければならないものと同じもの、同じ「肉」を負うものとなっ ているからです。罪深い人間と同じ姿において、人間の痛みを聞き、共に涙してくだ さる。わたしたちは主キリストにおいてそのような慰め、救いにあずかっています。 それだけではありません。もっと驚くべきことに、聖書は「その肉において、罪を罪 として処断された」と記します。罪と死の法則の下で、「肉の人」として罪にとらわ れ死におびえつつ生きているわたしたちに代わって、神の御子が肉を取られて、人間 のために「罪を処断され」、それによって私たちの罪の処置を終結させてくださった のです。この「あがない」としての救いの及ぶスケールの大きさに即したわたしたち の生き方はどのようであるべきでしょう。