09月07日
2003年9月7日

「わたしたちの救いのために」

ホセア書3:1-5;ローマの信徒への手紙8:1-11


 主イエス・キリストの受肉の神秘について、それは、「わたしたちの救いのため」

と告白します。では、わたしたちはどのような救いにあずかるのでしょうか。

 そのことを考える前に、主が人間となられたことを「受肉」と表現しますが、そこ

で「肉」と称される人間の事態を聖書はどのように捉えているかをローマ8:1−1

1によって確認しましょう。10回も「肉」という言葉が使われていますが、そこで

は、「肉の弱さ」「罪深い肉」「肉の思いは死」「肉の思いに従うものは神に敵対し

ており、神の律法に従っていない」などと記されます。「肉」は肉体を持つ人間のこ

とではなく、罪によって神に敵対し、弱くなり、本来の姿を失い「罪と死の法則」の

下にある人間の実相をとらえています。「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されて

います。・・・わたしは自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行

せず、かえって憎んでいることをするからです」というように、まことにわたしたち

のただ中にある隠された最も弱い人間の心、生き様をあらわしています。神の御子の

「受肉」は、まさにこのような「肉」を引き受けられたことを意味します。何と驚く

べきことでしょう。神と本質を一つにするものが、神に敵対するものになった、神の

御子が罪深く、弱く罪と死の法則の下にあるものとなった。それが「わたしたちの救

いのために」というのです。そこでは最早「救うもの」と「救われるもの」は向こう

側とこちら側、非難するものと非難されるものの対極の構造にはなっていません。救

うもの自身が救われなければならないものと同じもの、同じ「肉」を負うものとなっ

ているからです。罪深い人間と同じ姿において、人間の痛みを聞き、共に涙してくだ

さる。わたしたちは主キリストにおいてそのような慰め、救いにあずかっています。

それだけではありません。もっと驚くべきことに、聖書は「その肉において、罪を罪

として処断された」と記します。罪と死の法則の下で、「肉の人」として罪にとらわ

れ死におびえつつ生きているわたしたちに代わって、神の御子が肉を取られて、人間

のために「罪を処断され」、それによって私たちの罪の処置を終結させてくださった

のです。この「あがない」としての救いの及ぶスケールの大きさに即したわたしたち

の生き方はどのようであるべきでしょう。


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