イザヤ書57:14-19;マルコによる福音書10:32-45
主イエス・キリストの受肉の秘儀について、主イエスご自身が語っておられる言葉 に注目しましょう。「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多く の人の身代金として自分の命を献げるためにきたのである」、と。 この言葉が語られた状況や情景を思い浮かべながらその意義を考えると、このこと ばが一層立ち上がってきます。ガリラヤからエルサレムに向かって決然と先頭に立っ て進み始める主イエス、「従う者たちは恐れ、また弟子たちは驚いた。」それに続い て3度目の受難の予告。もう既に起こったことであるかのように詳細に。危機に突入 しようとしているナザレ人のイエスの集団。ここで、ゼベタイの子たちヤコブとヨハ ネとが、「栄光をお受けになる時一人を右に、一人を左において下さい」とお願いし たのでした。他の弟子たちはこれを聞いて怒り出すと言う十字架を前にした弟子たち の無思慮と無理解のテーマ。それに対して主イエスの言葉、「人の子は仕えるために 来た」が続きます。わたしたちはヤコブやヨハネをはじめ弟子たちのふがいなさに驚 き呆れるのですが、良く考えると、ここで弟子たちが思い描いている人生の脚本と主 イエスのそれとがあまりにも違う、ということのほうに驚かなければならないはずで す。主の危機の時は弟子たちにとっても危機でもありますから、それに向かう決死の 心構えをヤコブやヨハネは吐露したというべきでしょう。苦難、迫害、死の恐怖を乗 り越え、それらに打ち勝ってこそ勝利がある。その勝利の栄光を夢見る中に、栄光の 主のすぐ傍らに自分たちの姿を見る。苦難とその果てにあるものを想像する仕方はわ たしたちを多くの者の描く人生の脚本と変わりありません。「現代文化の根本的価値 体系、成功の基準」です。変わっているのは主イエスの方です。低く下り、奴隷のよ うに仕えることに貫かれた人生の脚本、自分の命を身代金として与えることを目標に 置いて自分の人生を思い描くような人がいるでしょうか。最後の晩餐のときにも主イ エスは同じ趣旨のことを語られます。しかも、これgは「真の神よりの真の神・・・ 父と同質」である神の御子が、人間を救うために人となられたその歩みを語る言葉な のです。自分の人生の設定を考える時、あまりに大きな違いに驚く他ありません。こ の驚きから、わたしたちは自分を深く顧みる根本的な機縁を獲得するのです。