09月21日
2003年9月21日

「天から下り」

詩篇107:1-22;ルカによる福音書10:21-37


 神の御子主イエスが人となられたこと「受肉」は、「わたしたちの救いのために『

天から下り』・・・」という事態だとキリスト教会は告白します。主イエスが「低く

下る」神であること、そのような方として、「疲れたもの、重荷を負う者はだれでも

わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わた

しの軛を負い、わたしに学びなさい」とわたしたちを招いて下さることをわたしたち

は知っています。低く下られた主として、主イエスはどのような人間の世界を見てお

られるのか、どのような世界の中に天の神の支配の実現を見ておられるのかを知ると、

主イエスの低さがもっとリアルに理解できるでしょう。そのためには、主イエスが話

された譬え話に心の耳を澄まして聞くことが大切です。

 「良いサマリア人の譬え」で展開されている人間の世界はどのような世界でしょう。

強盗に襲われた人、それを見ながら向こう側を通って行った祭司とレビ人、そして、

サマリア人、見ると心を激しく動かされ、近寄ってきて介抱し、最後まで一緒に歩ん

だ人・・・。天から下られた主イエスは、人間のこのような世界、このような状況を

知っておられます。そのような状況の中で生きておられます。人間が生きている実生

活の一こまを切り取って譬えとして話されたのは、律法の専門家の「永遠の命を受け

継ぐために何をしたらいいのですか」という、まことに宗教的な問い、神と人との根

源の関係にかかわる問いからです。驚くべきことに、この深遠な問いに対する答えは

もうすでに解決済みのこととしてあります。「神を全身全霊で愛すること、自分のよ

うに隣人を愛すること」によって不滅の命を受け継ぐことができると律法の専門家は

知っています。しかし、彼は「隣人とはだれか」と問うことによって、すなわち、愛

の実践の具体化を考慮するエネルギーを、隣人と隣人でないものとを峻別することに

向けているのです。愛に限界を設けるための工夫が愛の営み・・・。この人に対して

強盗に襲われた人とサマリヤ人の譬えを話し、誰が隣人になったのかと問い、そして、

「行ってあなたも同じようにしなさい」と語られるのです。低く下られた神は、高み

から世界を見ておられません。強盗に襲われた者の痛みから世界を見ておられます。

そしてそこに永遠の命への窓口が開いていることを教えられるのです。


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