詩篇103:1-22、使徒言行録10:34-43
主イエス・キリストが「真の人」としてわたしたちと共に時間と空間の中に生きる 存在となられたことについて、ニケヤ信条は「聖霊によりおとめマリアによって受肉 し・・・」と言い表します。聖霊による出生、処女降誕についての信仰は、多くの人 にとってつまずきであり、また理解不可能のこととして立ちふさがっています。これ をどのように信じるか、また、その信仰を通してどのように主を仰ぐかは、どうでも いいことではありません。 主イエスの生涯をとおして聖霊が深く関わっていることは新約聖書全体に記されて います。主イエスの洗礼の時、天が開けて鳩のように聖霊が下るのを見られました。 聖霊によって荒れ野に導かれ、断食の後試みを受けられました。ガリラヤの町々村々 を歩いて「悪魔に苦しめられている人々をすべて癒された」のは、神が聖霊と力によ ってこの方を油注がれた方とされたからだといいます。またローマ1:3には御子イ エス・キリストについて、「御子は肉によればだびでの子孫から生まれ、聖なる霊に よれば死者の中から復活によって力ある神の子と定められたのです」とあって、復活 と聖霊との関係をあらわしています。十字架の死による罪のゆるしとあがないの働き も聖霊によると記されます。このように、主イエスの生涯全体が聖霊の働きに導かれ、 その働きに包まれているということができますが、受胎が聖霊によると語られている ことは、主イエスの人間性そのものが聖霊の生きた働きによることを明らかにしてい るのです。「神が自由な恵みから人間に<真の人間>になりたもうたという事実を語 っている」(K.バルト)のです。したがって、これは処女降誕、単性生殖の神話に よる英雄伝説を伝えるものではありません。 聖霊によってみごもったということを受け入れたマリアやヨセフの受け入れ方は、 正しく神のこの働きを信仰をもって受け入れるということでした。マリアは結婚もし ない自分が身ごもるということを知らされ、それが「いと高き方の力が覆うこと」で あり、生まれる子によって神の支配がこの地に実現すると告げられた時、「お言葉ど おりこの身になりますように」と受け入れたのでした。ヨセフも自分の許婚が子を宿 したことを知らされ、その子が「自分の民を罪から救う」働きをするものとなると聞 かされた時、衝撃から立ち上がってその約束に賭けることにしたのです。