イザヤ書7:10-17;ルカによる福音書1:46-56
主イエスが人としてわたしたちと同じものになられたことを「聖霊によりおとめマ リアによって受肉し」と、ニケヤ信条は言い表します。この信条もまた使徒信条も二 人の具体的な人物が主イエスの人生に深く関わっていることを告げています。マリア とポンテオ・ピラト、出生と死にかかわった男と女の名が記されているのです。特に マリアは後の教会はその聖性を高く称賛し、「神の母」と呼ばれるようになります。 マリアの存在をわたしたちはどのように考えることができるでしょうか。 ローマ・カトリック教会ではマリアの「無原罪の宿り」の教理があって、マリアは 「聖霊によって造られ新しい被ぞう物に形成されたもの、あらゆる罪から免れた者」 として、ガリラヤのナザレの一処女が人類の母、わたしたちの祈りを受けるものと称 えられます。そこから更にマリアの処女性が重要な意味を持つものとされ、それが神 と人間との仲保的な働きをすると語られたりします。これらのマリア信仰から出るも のは人間賛美、自己栄光化に向かう危険をはらんでおり、聖書が語っているところと は大きく離れていると言わなければなりません。アウグスティヌスは「マリアが幸い なのは、キリストの肉体を宿したからよりも、キリストへの信仰を自分のものとした からなのです」といっていますが、わたしたちがマリアから学ばなければならないこ とは、まさにそのこと、キリストを受け入れたその信仰です。 クリスマスのたびごとに読まれるマグニフィカートと呼ばれるマリア賛歌は、キリ ストの母となるものの喜びと神への感謝が歌われていますが、このなかにマリアの信 仰がよく歌われています。まず驚かされるのは、未婚の母となるマリアは御使いの言 葉を聞いて自分の身に起こったことを喜んでいるということです。この歌にはマリア の笑いがあります。その笑いはどのような性格の笑いなのか、わたしたちはマリアの ようなことに遭遇する時、笑って感謝の歌を歌うことができるかと思い巡らすなら、 だれでもその笑いのすごさに気づくでしょう。「主がおっしゃったことは必ず実現す ると信じた方は、なんとさいわいでしょう。」とエリサベツが言っていますが、その ような信仰から来る笑いがあるのです。「この貧しいものを高く引き上げてくださっ た」という敬虔な喜び、神は思っていたとおりのお方と確認しています。