10月19日
2003年10月19日

「人となり・・・」

イザヤ書45:9-13;ローマの信徒への手紙5:12-21


 主イエス・キリストは、「わたしたちの救いのために」、「受肉し、人となられた」

と信条に告白されています。主イエスが人となることとわたしたちの救いはどのよう

に結びついているのか、またどのような救いがそこにあるのかをたずね求めましょう。

 ニケヤ信条のキリスト理解を導いた教父アタナシウスは、「キリストはわたしたち

が神聖な者となるために人となられた」といいました。わたしたちが罪と死の支配か

ら解放されて、朽ちず、汚れず、しぼむことのない神の与えてくださった命を回復す

るために、人となって下さったというのです。このことをあらわすことばに“Ato

nement”という言葉があります。これは、普通罪を償うこと、「償罪」と訳し

ますが、その語源はat−one−ment一つになること、あるいは、一つである

ことです。キリストがわたしたち人間と同じもの、わたしたちの仲間、わたしたちと

同じ苦悩を負うものとして、わたしたちの人間の本性がキリストと一つに合わされま

した。キリストが合わせてくださった人間的な本性は、わたしたちの中にある無垢な、

汚れのない、敬虔な部分にではなく、罪と死を負う人間的な本性、神からもっとも遠

く、神に見捨てられた人間的な本性とご自身の人格を合わせてくださいました。イエ

ス・キリストの生涯はその出生から十字架の死に至るまで、そのような人間性とご自

身を一つにする生涯でした。さらに、わたしたちのために、わたしたちに代わって、

わたしたちの代表として、キリストはわたしたちの罪と死を負うて、罪に対する裁き

をご自身の死によって決着をつけてくださったのです。わたしたちの罪はキリストの

死に転嫁され、キリストの命と義とはわたしたちに転嫁されたのです。キリストが「

人となる」ことは、このようにわたしたちの命と結びついています。

 パウロは、主イエス・キリストの「人となる」ことが「恵みの賜物」としてわたし

たちに与えられている意義を人類の始祖アダムと対比させて論じています。神のかた

ちにつくられた人、しかし最初の罪によってすべての人に罪と死が及ぶこととなった

人類の代表としてのアダム、しかし、キリストが「人となる」ことによって、「一人

の人イエス・キリストによって命の支配が始まった」、「一人の正しい行為によって、

すべての人が義とされて命を得ることになった」と。キリストに合わされることによ

って「アダムの裔」ではない新しい人間が生きはじめるのです。


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