ミカ書4:1-8;ペトロの手紙2:18-25
ニケヤ信条では、わたしたちの救いのために人となられた主イエス・キリストは「 ポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられ」というローマの総督の名と共にその十 字架の滋賀語られることは不思議な気がします。福音書などを読んでいるものには、 語られているものには、語られているイエスの生涯より語られていなことの方が重要 だと思わされます。しかし、あえて古代の信条は、人となられたこと、十字架の死、 復活といった事実しか語りません。「人間の救いのため」必須のことをこれらによっ て語ろうとしているからです。 ポンテオ・ピラトは人類の救済の歴史に名をとどめるほどの人物であったでしょう か。確かに、彼の決断によって主イエスの十字架刑が決定しました。しかし、その決 断たるや、まさに裁判官としての両親にはじるべきものでした。正義にではなく民衆 の声に負けて責任を放棄したのですから。従って、ピラトの名だけが主イエスの十字 架に責任があることにはなりません。弟子たちも、祭司長たちも、次々に責任を放棄 し引き渡して行った結果が十字架であるにすぎないのですから。真の下手人は誰か、 人間の心に巣くう罪です。ピラトの名は罪を負う人類の代表として、主イエスは、こ のピラトと同じ人間となられました。ピラトの人間性にご自分を合わせられました。 ピラトのために、ピラトの罪を負って、十字架につけられたのです。ピラトの名をわ たしの名やその他の人間の名前に変えて読んでみると、主イエスの人間としての歩み がリアルにわたしたちに迫ってきます。 ペトロの手紙には、主イエスの苦しみと死とを、キリスト者の生活のあらゆる側面 で思い起こさなければならないことを説いています。召使たちにも、よい主人だけで なく、心のまがった主人にも心から服従するように、と教えて、それはキリスト・イ エスの模範にならうことだ、というのです。しかし、ただ主イエスが他の人のために 苦難を偲んだ模範、足跡に従うことから、その苦難は、「わたしたちの」罪を担って くださったこと、その傷によって「あなたがたは」癒された、と語ることに発展して いきます。十字架の出来事がわたしたちのため、あなたの罪のため、と歴史的、かつ 具体的な出来事であることを明らかにするために、ポンテオ・ピラトの名は深く石に 刻まれるのです。