ヨブ記16:18-22;ガラテヤの信徒への手紙3:1-14
ニケヤ信条では、主イエス・キリストが「ポンテオ・ピラトのもとで十字架につけ られ」と記して、その死が「十字架」の極刑による、と信じ告白しています。ハイデ ルベルグ信仰問答では、「その方が十字架につけられたことには、何か別の死に方を する以上の意味がアルのですか」と問い、「あります。それによってわたしはこの方 がわたしの上にかかっている呪いをご自身の上に引き受けてくださったことを確信す るのです。なぜなら、十字架の死は神に呪われたものだからです」と答えています。 ここに記されていることがわたしたちの救いとなることの意義を良く考えてみなけれ ばなりません。 イギリスの現代の神学者マグラスは、キリスト教はあまりにしばしば「神は愛であ る」という一般的な主張に還元されていることに対して警戒を呼びかけています。キ リストの十字架は自己犠牲の極致で、わたしたちもその愛に倣って他者のために生き ようと語られるところでは、十字架の謎は何もありません。しかし、十字架の深い意 味はそのようなことによって説き尽くせるものではありません。「どうして、神の選 ばれたメシアが、律法を完成させ神の民をあがなうために来たのに、罪人とされて、 律法のもとで、その民に処刑されたなどということがあり得るのでしょうか」とその 不思議さ、謎の一端を示していますが、更に、このことが神のわたしたち一人一人へ の愛を示すものであり、それが、わたしたちの究極の救いとなることを了解知るのは 簡単ではありません。十字架は、わたしたちの現実に突き付けられた神からの大きな 謎として、深い闇の現実に出会うたびに、根源からその闇を捉え直す力として向かい 合うべき神の言葉です。 ガラテヤの信徒への手紙には「キリストはわたしたちのために呪いとなって、わた したちを律法の呪いからあがないだしてくださいました」という古典的な聖句があり ます。驚くべし、キリスト・イエスは、呪いのもとにある人間に近づいて、慰めや希 望を与える言葉や働きをしたのではなく、キリストが呪いとなった、と語られるので す。「罪と何のかかわりのない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わ たしたちはその方のよって神の義を得ることができたのです」と別の言葉でも表され ます。十字架は、そのような事態、わたしたちの罪と呪いがキリストにきせられる事 態、そして、キリストの義がわたしたちのものとされる事態です。