イザヤ書53:1-12;ローマの信徒への手紙5:1-11
ニケヤ信条は、主イエス・キリストについて、「十字架につけられ、苦しみを受け、 葬られ」と三つの言葉によってその生涯を描いています。そこに、わたしたちが信じ 告白するキリストがいる、と。主イエスの生涯は、苦しみばかりで何の喜びもなかっ た、ということではありません。ガリラヤの豊かな自然と素朴な人間関係の中で、世 界に起こることを曇りのない目で、貧しいながらしっかりと生きている人々と楽しん でおられたことが、主イエスの譬え話などを見ると良く分かります。しかし、その生 涯は十字架の死へと向かう一筋の生涯であったということは間違いなく、主イエスの 苦難と死を通して、主がわたしたちに語りかけるものが何かを考えなければなりませ ん。 ある人が、「もっとも希望のない場所は、世界のどこにあるか」と問い、さまざま な絶望的な状況に思いをめぐらした上で、「この世でもっとも希望のない所とは、決 して神を放棄しなかった人が、神ご自身によって見捨てられ、十字架にかけられたと ころである」と言っています。主イエスの十字架上での叫びは、そのことを示してい ます。しかし、これがあなたの神であると宣言しているのです。それが、わたしたち の救いのために働いておられる神の姿です。確かに、神とわたしたちの関係を考える と、最も神から遠い、考えることのできない姿において、神はわたしたちと向き合っ ておられます。 ローマの信徒への手紙の、礼拝のたびに聞く主の赦しのことば。「実にキリストは、 わたしうたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくだ さった。」「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死 んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」「敵であ った時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたとすれば、和解させてい ただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」これらの言葉の中に ある、「わたしたち」とはどのような者でしょう。「弱いもの、不信な者、罪人、敵」 これらは神から最も遠い、神に見捨てられてしかるべき者です。罪と死の法則の中で 絶望と悲惨の当然の定めの中で生きるべき者です。しかし、神は、まさにそのような 者のために、神の御子の体において、神から最も遠いところで、この世の中でもっと も希望のないところで、その死を引き受けてくださっています。