ヨナ書2:1-11;ヘブライ人への手紙9:11-22
ニケや信条の神の御子イエス・キリストの歩みについての告白のことば、「葬られ」 は、それによって、主イエスに起こった歴史的な出来事を確認するというだけでなく、 それによって、わたしたちの主イエスに対する信仰を表明しています。「ハイデルベ ルグ信仰問答」41では、問い「なぜ、この方は葬られたのですか」、答え「それに よって、この方が本当に死なれたことを証するためです」と言い表されています。 「葬られる」のは生きている人間の最後の事態です。生きる者の世界と完全に分けら れる時、これによってこの世の場所は無くなること、現在と未来が消失して、過去だ けの存在になるということです。人間はにな葬られます。しかし、ここで「葬られた」 のは主イエス・キリストであることから目を離してはなりません。世のはじめよりあ られ、光よりの光、真の神よりの真の神が「葬られ」たのです。葬られた者は、命の 源である神から最も遠く離れた、光の届かないところ、罪の終極の姿をあらわにして いる者です。その所にわれらの主はおかれた、と、敢えて、大胆に語っています。そ のように告白するキリスト者たち心の内に燃えるものをよく理解しなければなりませ ん。それは、主イエスの十字架の死は、ただ「見せかけの死」だと主張する仮現論の キリスト論に対して明確な否を告げているのです。御子イエスは確かに死なれ、葬ら れた。その事実をもってキリストはわたしたちと関わってくださった。わたしたちの 救いのためには、この事実から撤退することはできない、と。 キリスト者は洗礼によって「キリスト共に葬られた者」です。自分の命の葬りの日 に先立って、キリスト共に葬られています。とすれば、自分の身体の葬りは、もはや 罪と死の結果としての葬りではなく、キリストの復活の体にいよいよ近く合わされる ことに向かって、「永遠の命にいたる入口」ということになります。 ヘブライ人への手紙では、キリストの死と葬りは、新しい契約を結べための「血」 としてあらわされています。大祭司であるキリストが民の罪のあがないとして自分自 身の血をもって新しい契約の仲保者となり、それによって罪のゆるしが神の前に確か さにれ。こうして、「キリストの血にはわたしたちの良心を死んだ業から清めて、い ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」(9:14)。主イエス・キリストの 確かな死から、新しい事態が始まっているのです。