イザヤ書2:1-10;マタイによる福音書3:1-12
アドヴェントの季節に、教会は主イエスの到来を待つためにバプテスマのヨハネの ことを想起します。主が来られるための道ぞなえをし、悔い改めのバプテスマを施し たあのヨハネです。ヨハネは、らくだの毛皮を身にまとい、皮の帯を締め、イナゴと 野蜜を食糧とし、荒れ野に住んでいる人です。異形の人、変人です。キリストの来ら れるのを待つために、福音書は、まずわたしたちをこの荒れ野のヨハネと出会わせる、 これには何か意味があるのでしょうか。旧約の預言者は、神に立ち返ることを人々に 告げるとき、イスラエルの出エジプトの経験、荒れ野を想起するようにとよく語りま した。荒れ野は人が生きることを拒絶する場所、上からの助けなしには生きることが できない場所です。祭司の子ヨハネは、あえて、神殿からではなく、荒れ野から、叫 びます。荒れ野へとわたしたちを呼び出します。 ヨハネの叫びはやさしいものではありません。差し迫っている神の怒りの時を告げ、 実りをもたらさない木は切り捨てられるように、もみがらは吹き飛ばされ火に投げ入 れられるように、滅ぼされる、嫁げるのです。「悔い改めよ。天に国は近づいた。」 これがヨハネの宣教の内容ですが、主イエスの宣教の言葉と全く同じです。しかし、 そこには神の愛を感じさせるよりは、むしろ神の裁きの厳しさが強調されています。 ローマの支配に対する民衆の嘆きや悲しみは問題になっていません。支配者の横暴と 不正に対する怒りも問題ではありません。まっすぐに、ひとり一人の良心を神の到来 の時に向かい合わせ、そこから悔い改めにふさわしい実を結ぶように、と迫っていま す。ファリサイ派の人々にもサドカイ派の人々にも、彼らの政治姿勢や宗教観などの 問題ではないのです。ヘロデ王に対してさえ、その支配の在り方ではなく、私生活に おける姦淫の罪を問い、これが彼の生命を終わらせることになりました。このヨハネ の激しい神からの問いかけに向かわせ、悔い改めに至らせる叫び、これはすべての人 を拒絶し排除する響きを持っています。にもかかわらず、人々は荒れ野に殺到し、こ のヨハネの叫びを聞き、ヨルダン川で洗礼を受けたのです。人はなぜ、このような言 葉を聞きに集まるのか、と考える時、人は神に向けて造られている、ということを考 えない訳にはいきません。主イエスも、このヨハネのところに自ら赴き、このヨハネ の叫びを聞き、ヨハネから洗礼を受けたのでした。