イザヤ書35:1-10;ヤコブの手紙5:7-11
教会はアドヴェントの時に「忍耐して待つこと」に意義を考えます。「昔ユダヤの 人々は、神様からのお約束、貴い方のお生まれを何百年も待ちました」と、ページェ ントのはじめに子どもたちは歌います。「何百年も待つ」ということがわたしたちの 生活の中にあるのか、それはどういうことなのか、と考えさせられます。確かに、ク リスマスを祝うことを知っている民は、待つことを知っている民である、というテー ゼが成り立つはずです。 ヤコブの手紙には、忍耐をすすめる言葉が沢山あります。「試練を耐え忍ぶ人の幸 い」を語るのは、この書の特徴の一つです。忍耐することによって「完全で申し訳な く、何一つ欠けたところのない人になる」と励ますだけでなく、忍耐するために、 「誰でも聞くのに早く、話すのに遅く、また、怒るのに遅くしなさい」と、忍耐の具 体的な方法を教えたり、どうして忍耐できないのか、狭い心になる分析をしたりしま す。「何が原因であなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の 内部で争いあう欲望がその原因ではありませんか・・・」 しかし、このような、人間関係の中で思慮深く忍耐をするのとは全く別の種類の 「忍耐と寛容の心」の持ち方があるというのです。「主が来られる」という時を意味 することによって忍耐しなさい、と。間もなく主が来られる、だから、心配や不安を 捨て、悲しみや怒りの虜になることなく、希望を持って、待っていようと考える忍耐、 主が来られることを知っていることから来る寛い心、この特別な種類の忍耐をわたし たちは確かに知っているでしょうか。ヤコブは、これは珍しいことではない、と収穫 を待つ農夫のたとえや、神の支配の時を待った預言者たちやヨブのことを引き合いに 出して、終わりの時、完成の時、究極の時の到来から現在の時の意味を逆算して考え る生き方を教えています。イスラエルの農夫たちは、空が曇り、秋の雨が降るように なると、さあ、働く時だ、と畑に出て耕し始めるのです。暗い空は希望のはじまりで す。その労苦と汗の意味と目的を、農夫たちは知っています。 「主が来られる時まで忍耐しなさい」は、どのように怒りを抑えるか、どのように 感情をコントロールするか、ではなく、「主が来られる」ということの大きさと深さ と寛さ、その決定的なことを知るほどにますます確かになってくる「忍耐、寛い心」 です。