12月14日
2003年12月14日

「主が来られるときまで忍耐しなさい」

イザヤ書35:1-10;ヤコブの手紙5:7-11


 教会はアドヴェントの時に「忍耐して待つこと」に意義を考えます。「昔ユダヤの

人々は、神様からのお約束、貴い方のお生まれを何百年も待ちました」と、ページェ

ントのはじめに子どもたちは歌います。「何百年も待つ」ということがわたしたちの

生活の中にあるのか、それはどういうことなのか、と考えさせられます。確かに、ク

リスマスを祝うことを知っている民は、待つことを知っている民である、というテー

ゼが成り立つはずです。

 ヤコブの手紙には、忍耐をすすめる言葉が沢山あります。「試練を耐え忍ぶ人の幸

い」を語るのは、この書の特徴の一つです。忍耐することによって「完全で申し訳な

く、何一つ欠けたところのない人になる」と励ますだけでなく、忍耐するために、

「誰でも聞くのに早く、話すのに遅く、また、怒るのに遅くしなさい」と、忍耐の具

体的な方法を教えたり、どうして忍耐できないのか、狭い心になる分析をしたりしま

す。「何が原因であなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の

内部で争いあう欲望がその原因ではありませんか・・・」

 しかし、このような、人間関係の中で思慮深く忍耐をするのとは全く別の種類の

「忍耐と寛容の心」の持ち方があるというのです。「主が来られる」という時を意味

することによって忍耐しなさい、と。間もなく主が来られる、だから、心配や不安を

捨て、悲しみや怒りの虜になることなく、希望を持って、待っていようと考える忍耐、

主が来られることを知っていることから来る寛い心、この特別な種類の忍耐をわたし

たちは確かに知っているでしょうか。ヤコブは、これは珍しいことではない、と収穫

を待つ農夫のたとえや、神の支配の時を待った預言者たちやヨブのことを引き合いに

出して、終わりの時、完成の時、究極の時の到来から現在の時の意味を逆算して考え

る生き方を教えています。イスラエルの農夫たちは、空が曇り、秋の雨が降るように

なると、さあ、働く時だ、と畑に出て耕し始めるのです。暗い空は希望のはじまりで

す。その労苦と汗の意味と目的を、農夫たちは知っています。

 「主が来られる時まで忍耐しなさい」は、どのように怒りを抑えるか、どのように

感情をコントロールするか、ではなく、「主が来られる」ということの大きさと深さ

と寛さ、その決定的なことを知るほどにますます確かになってくる「忍耐、寛い心」

です。


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