イザヤ書61:10-62:3;ヨハネによる福音書1:1-18
不思議なことに、クリスマスのような世俗的になってしまったキリスト教の礼拝の なかで、よく読まれる聖書の箇所はヨハネによる福音書のプロローグ、最も哲学的、 思弁的なことばです。 ここで語られている世界の観方、生命への洞察は驚くべきものがあります。4節の ことば、「生成したものは、ことばのなかに、命を持っていた。この命が、人の光で あった。」いのち、という生命的なもの、生きて躍動するもの、その命の本質は「こ とば」だというのです。いのちあるものの中からことばが出てくるのではなく、また、 人間だけがことばをもっているのではないのです。存在するものとして現出している すべてのものは、ことばがつくりだしたものであり、「ことば」のなかに、いのちを 持っている。ことばがいのちを造りだし、いのちを保つ。これは、現在の科学による 探求によっていのちの本質をDNAにあると見出し、DNAの配列によっていのちの かたち、いのちの在り方が決定されていると考えることの先取りでもありますし、そ れよりもっと根源的に、存在するものの本質を捉えています。いのちをこのように捉 えることが、人間の光、です。わたしたちは人間ですから、人間がどこに光を見出す かは無関心でいられません。いのちの本質を見失う時、闇に陥ります。陥っている闇 から解放され、人間を照らす光を見ることができる道は、「いのち」は「ことば」か らできている、と知ること、いのちを造り出し、保っていることばを見出すことによ って、まさに、光の中を歩むものとなります。人類の文化的な営み、人間の歴史は、 すべて、この「ことば」を獲得する努力の結実だということができます。 ヨハネが語るのは、この驚くべき世界観、生命への洞察だけではありません。もっ と本質的なこと、驚くべき発見について、です。「ことばは肉体となって、わたした ちのうちに宿った。わたしたちは、その栄光を見た。」この発見です。ことばは、も はや目に見えないもの、見えるものの背後に隠れている非物質的なもの、捉えがたい もの、ではありません。イエス・キリストを見よ、「この人を見よ」ここに、わたし たちが見ることができ、聞くことができ、手で触れることができる「ことば」がある。 この方のうちにいのちが造られ、いのちが保たれている「ことば」がある。それは 「恵みをまことに満ちていた」と。このように証しする「わたしたち」のなかに、 「わたしたち」もいるはずです。