199800315
1998年3月15日

「キリストの尊い血によって」

ペテロの手紙T1章13−25


 「あなたがたが先祖伝来の空しい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果

てるものにはよらず、傷や汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」

 ここで告白されていることの内容に目をとめてみましょう。わたしたちが「先祖

伝来の空しい生活」から贖われたのは、「傷や汚れのないキリストの尊い血」によ

る、と告白されています。わたしたちの日常生活の中で現に経験していることです

が、空虚な、実りのない、無力な、真実みのない生活は、貧しい何もない時代より

も豊かに物が有り余っている時代こそ、その空しさをくっきりと描き出しているこ

とを感じさせられ、それは人間のちょっとした思いつきや努力などでは解放されな

いような根の深いものであることを感じさせます。「先祖伝来の空しい生活」とい

うのはこのような人間の根深い罪に由来することを明らかにするのです。

 キリストに結びついている者はこの先祖伝来の空疎な奴隷の生活から、代価を払

って買い戻されています。「金や銀のような朽ち果てるものによるのではなく、傷

や汚れのない小羊のようなキリストの尊い血」によってです。ここでは「キリスト

の尊い血によって」という祭儀的な言葉が使われています。キリストの罪人を憐れ

む深い愛によって、とか、十字架の死を経験された激しい痛みや死の恐れを敢えて

引き受けたことによって示される勇気ある自己犠牲というようなキリストの人格的

な行為に光を当てているのではなく、キリストの血の祭儀的な意味に光を当ててい

ます。祭儀において血が流されることによって、祭儀に参加しているものの罪が神

の前で清められ和解と清算がなされるからです。キリストの贖いの祭儀的な側面が

強調されると言うことは、わたしたちの側のキリストの愛に感動したり、その決意

に促されて自分も決意したりという人格的な力よりも、出来事自体の起こす力が強

調されていると考えることができます。洗礼を受け、聖餐にあずかっているという、

その出来事自体がわたしたちをあたらしくし、信仰の決意を与えられているのと同

じです。

 わたしたちの教会が教会堂を建てるという具体的な目に見える働きへと心を一つ

にしていこうとするとき、「さあ、がんばるぞ」と熱く思える人もいれば、冷めて

しまう人もいるでしょう。自分にはその力がないとバスに乗り遅れた気分になる人

もいるでしょう。その場合、前者が後者を裁き、後者は無関心になるというのがこ

の世のパターンです。先祖伝来の空しい生活のありかたです。ここでわたしたちが

すべきことは信仰告白に立ち帰り、そこにおいて共に一つとなることです。キリス

トの尊い血によって、先祖伝来の空しい生活から解放された事態を告白することで

す。
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