ペテロの手紙T2章18−25
「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと模範を 残されたからです。」 キリストがわたしたちの「模範」・・・。模範という言葉の原意は、影や色をつ けていく前の「下絵」という意味と、写本の「原本」という意味とがあると言われ ますが、キリストの歩みがわたしたちの歩みの下絵、また原本であるということは、 何ともったいないことでしょう。 キリストがわたしたちの歩みの「模範」といわれる場合、二つの注目すべきこと に気づきます。まず、模範とすべきことは、キリストが病気を癒したり、海の上を 歩いたり、奇跡的な給食をしたりしたことではなくて、黙々と裁きを受け、十字架 を背負って従順に歩かれたこと、その足跡です。キリストの強さではなく弱さ、へ りくだり、赦しです。これなら、いかなる凡人も倣って歩むことができる可能性を 持っています。しかし、これは最も模範らしくない模範です。より強いもの、超人 的なものを模範として持ちたがり、十字架への歩みが模範だとは考えたくないから です。しかし、実に、このキリストの歩みが模範であり、その足跡に従うように勧 められるのです。そこに命への道があるからです。 今一つ注目すべきことは、キリストの模範は「あなた方のために苦しみを受け・ ・・十字架にかかってわたしたちの罪を担ってくださった」歩みが模範になってい るということです。「わたし」が抜き差しならない関係でこの模範につながってい ます。一般にわたしたちの人生において、仕事の上でも、生き方の上でも、さまざ まの模範となるべき人を持っていると思います。その場合模範となるべきものは、 わたしの生とは直接関係を持たないものです。父や母が模範という場合でも、直接 の関係というよりは、力や愛や努力への尊敬や讃美や共鳴を介して模範となる関係 が生じます。しかし、キリストの場合は違います。「わたしのために苦しみを受け、 十字架にかかってわたしたちの罪を担ってくださった」こと、ここに模範となるべ き姿を見出すのです。その模範はわたしたちの上や前にあるだけではなく、わたし たちの下にあり、またわたしたちの中にあります。それに包まれているともいえま す。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁き になる方にお任せになりました」という従順と柔和の歩みがわたしを死から命へ、 闇から光りへもたらしたのですから。秋山牧師の説教集インデックスへ戻る