199800329
1998年3月29日

「ののしられてもののしり返さず」

ペテロの手紙T2章18−25


 「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと模範を

残されたからです。」

 キリストがわたしたちの「模範」・・・。模範という言葉の原意は、影や色をつ

けていく前の「下絵」という意味と、写本の「原本」という意味とがあると言われ

ますが、キリストの歩みがわたしたちの歩みの下絵、また原本であるということは、

何ともったいないことでしょう。

 キリストがわたしたちの歩みの「模範」といわれる場合、二つの注目すべきこと

に気づきます。まず、模範とすべきことは、キリストが病気を癒したり、海の上を

歩いたり、奇跡的な給食をしたりしたことではなくて、黙々と裁きを受け、十字架

を背負って従順に歩かれたこと、その足跡です。キリストの強さではなく弱さ、へ

りくだり、赦しです。これなら、いかなる凡人も倣って歩むことができる可能性を

持っています。しかし、これは最も模範らしくない模範です。より強いもの、超人

的なものを模範として持ちたがり、十字架への歩みが模範だとは考えたくないから

です。しかし、実に、このキリストの歩みが模範であり、その足跡に従うように勧

められるのです。そこに命への道があるからです。

 今一つ注目すべきことは、キリストの模範は「あなた方のために苦しみを受け・

・・十字架にかかってわたしたちの罪を担ってくださった」歩みが模範になってい

るということです。「わたし」が抜き差しならない関係でこの模範につながってい

ます。一般にわたしたちの人生において、仕事の上でも、生き方の上でも、さまざ

まの模範となるべき人を持っていると思います。その場合模範となるべきものは、

わたしの生とは直接関係を持たないものです。父や母が模範という場合でも、直接

の関係というよりは、力や愛や努力への尊敬や讃美や共鳴を介して模範となる関係

が生じます。しかし、キリストの場合は違います。「わたしのために苦しみを受け、

十字架にかかってわたしたちの罪を担ってくださった」こと、ここに模範となるべ

き姿を見出すのです。その模範はわたしたちの上や前にあるだけではなく、わたし

たちの下にあり、またわたしたちの中にあります。それに包まれているともいえま

す。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁き

になる方にお任せになりました」という従順と柔和の歩みがわたしを死から命へ、

闇から光りへもたらしたのですから。

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