エレミヤ書31:7-14;マタイによる福音書2:13-23
マタイによる福音書によれば、主イエス・キリストの降誕を告げる喜びの知らせは、 ただちにヘロデ王の恐るべき幼児虐殺の凶行の知らせへと展開していきます。幼子は 父ヨセフに告げられた主の天使の導きでエジプトに逃れ、そこでヘロデ王が死ぬまで とどまり、ヘロデが死んだ後にイスラエルに帰ってガリラヤのナザレに住んだ、と伝 えています。ここでは、「すべての人を罪から救う」救い主は、人の命を救い平和を もたらす人ではなく、闇の支配からかろうじて逃げ出した人、しかし、そのせいでベ ツレヘムの周辺の2歳以下の幼児が皆殺しにされ、「激しく嘆き悲しむ声」を引き起 こす人です。ここからどのような「福音」のメッセージを聞き取ることができるので しょうか。預言者エレミヤは神の支配が現実となる情景について次のように言ってい ます。「主はヤコブを解き放ち、彼にまさって強いものの手からあがなわれる。彼ら は喜び歌いながらシオンの丘に来て、主の恵みに向かって流れをなして来る。彼らは 穀物、酒、オリーブ油、羊、牛を受け、その魂は潤う園のようになり、再び衰えるこ とはない」、と。主の救いが実現するということは、まさに、そのようなことである し、そうでなければなりません。しかし、神の霊によって生まれた主イエスの到来は、 人類の歴史のいたるところで顔をのぞかせる闇の支配、人間の最も醜悪な心がそのか たちを現出させる出来事を引き起こしています。神の救いの到来は、神への反逆を掻 き立て増長させています。罪の支配に対して、救い主は難民となって逃亡しているの です。「奴隷の家」が主のすみかです。 このような事態について、カルヴァンは次のように言っています。「このことから 神はご自分のものとされた民を唯一の方法で救出されるのではなく、ある時には誰の 目にも明らかな力強い御手によって救われるが、ある場合にはその力の最も小さな火 花でさえ人の目には隠されることがあると言うことを教えられる。だから、われわれ は、救いについて考える時、普通の方法でのみ救いがあると考えてはならない。御子 の十字架によって示された救いの方法を考える時、何と驚くべき仕方でそれがなされ たかを考えるなら、神の救いについて決まりきった方法で考えることがいかに間違っ ているかを知ることができる。」確かに、このエジプト逃亡と幼児虐殺の出来事は、 十字架のつまずき、そこでこそ「召されたわたしたちには神の力」となるべき十字架 の愚かさです。