1月11日
2004年1月11日

「三日目に復活し・・・」

ホセア書6:1-6;ローマの信徒への手紙8:31-38


 ニケヤ信条の講解に戻り、「聖書にあるとおり三日目に復活し」と告白されている

ことについて、これが何を意味し、この信仰によってどのような益が与えられるかを

考えましょう。復活の信仰はキリスト教の宣教の土台であり、これがなければ、「わ

たしたちの宣教は無駄になるし、あなたがたの信仰も無駄になります」とパウロがい

うとおり、一切の希望の根拠を失います。しかし、復活の信仰は、主イエス・キリス

トの復活の奇跡的な出来事を過去の歴史の出来事として忘れないようにすると言うだ

けでは、そこから何の力も与えられません。生き生きとした復活の信仰にあずかるこ

とがなければなりません。

 そのためには、主イエスの復活の出来事がどれほど衝撃的で人間の思慮を超えてい

るかについて、驚きに目を見開かなければなりません。これは、霊魂の不滅や死んで

星になるという類の「死の美化」の物語ではありません。また、これは近代の学者た

ちが言うようなペテロの「覚醒体験」として片付けられるものではありません。その

ような耳ざわりの良い言葉で復活が語られたら、どれだけの人が主を大胆に宣べ伝え、

殉教の死を恐れないほどの希望と勇気を汲み取ることができたでしょう。圧倒的な事

実によって、復活した主イエス・キリストの人格的な出会いによって新しく生きるこ

とへと変えられ、その出来事の驚きと衝撃によって、そこから十字架の死の意義が確

かにされていったというのが、聖書が証しすることですし、また、歴史的な事実経過

でしょう。

 パウロは、復活の主を信じると言うことがどのような希望を与えるかについて、ロ

ーマの信徒への手紙8章に非常に高揚した言葉で伝えています。それは、十字架の死

と復活が一体のこととして語られ、また、それによって神の愛、キリストの愛がこの

上なく明らかにあらわされたこととして描かれます。「わたしたちすべてのために、

その御子をさえ死に渡された方が、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らな

いはずがありましょうか。・・・だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。

死んだ方、否、むしろ、復活された方であるイエス・キリストが、神の右に座ってい

て、わたしたちのために執り成してくださるのです。」主イエス・キリストが「聖書

にあるとおり、三日目に復活し」と告白することは、この希望にあずかることです。


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