1月18日
2004年1月18日

「主イエス・キリストの昇天の益」

列王記上8:22-32;使徒言行録1:3-11


 主イエス・キリストが復活された後、40日の間弟子たちにその姿をあらわし、弟

子たちの見ている前で天に昇りその姿が見えなくなったということ、ニケヤ信条では、

この出来事がわたしたちの信仰にとって極めて大切なこととして表わされています。

このあまりにも神話的な表現を、現代人のわたしたちが信じるには、戸惑いを禁じ得

ません。人間が宇宙空間を旅することができるようになっても、わたしたちが生きる

希望の視野が広がったと言うわけではなく、キリストが天に昇ったということによっ

て開かれた救いの領域が現実的になったということでもありません。依然として、キ

リストの昇天の秘儀は秘儀としてとどまっています。しかし、キリストの十字架と復

活、そして昇天を通して示される神の愛に触れるならば、わたしたちが生きる時間と

空間を包み、それを超える恵みに触れることになります。わたしたちが生きるのは、

最早この世からではなく、この恵みから生きるものとなるのです。

 ハイデルベルグ信仰問答が語る「キリストの昇天の益」は、昇天によって、キリス

トが御父の面前でわたしたちの執り成し手となってくださるということ、わたしたち

はそれによってわたしたちの身体の一部を天に持つようになり、やがてわたしたちの

身体全体が天に引き上げられることの保証を得ていると言うこと、そして、この昇天

によって天から聖霊が送られ、わたしたちがこの地上のものではなく天上のものを求

めることができるようになったこと、これらの三つの点をあげます。

 天に昇られたキリストを見ることによって、使徒たちが確認したことは、そこです

べてが終わったということではありません。ナザレのイエスの生涯はそこで終わりま

すが、そこから新しい時、聖霊の時が始まります。「昇天」が使徒のはたらきの「起

点」になっているのです。昇天を信じるということは、天を見上げてジッとそこを見

つめていることではありません。聖霊を受けて、地の果てまで主の死と復活の証人と

なり、世界の果てまで遣わされて行くのです。わたしたちと同じ肉を取られた主イエ

ス、わたしたちの罪と死を負われた主が、天に場所を持ち、そこから聖なる霊を送っ

てくださるのですから、わたしたちの生は垂直に広がります。また、主イエスのから

だとわたしたちのからだが合わされる時に向かって生きることができるのです。


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