申命記8:1-10;エフェソの信徒への手紙1:15-23
神のみ子主イエスを信じる告白の中で、現在形で語られるのは、この「父の右に座 しておられます」という言葉だけです。わたしたちの罪のために十字架につけられ、 葬られ、三日目に復活されたキリストは、いま、どこでわたしたちと出会われるか、 キリストの「現在」を知る手がかりは、このことば以外にありません。「父の右」に 座しておられる、ということです。この信仰のリアリティーを、わたしたちはどのよ うに確信しているでしょうか。新約聖書の中で、「父の右」に座っているキリストを 見たのは、最初の殉教者ステファノだけです。かれは肉体の視覚によってではなく、 信仰の目で見たのでしょうが、それを語ることによってユダヤ人の中に激しい怒りを 呼び覚まし、石で打ち殺されることになりました。父の右に座しておられる主を見る ということは、命がけのことです。神のうちにそのような存在を認めること、またそ のような存在以外に神を認めないと言うこと、この二つの点でこの世はキリスト者の 命を脅かすものとなります。 「父の右の座」は、神の栄光と権威を象徴する言葉ですから、罪人として十字架に つけられ朱イエスが、すべての権威や権力の上におられることを言い表しています。 新約聖書の中でこのことが強調されるのは、イエス・キリストが信仰者の集団の中だ けで信じられ、霊的な完成を持つものだけがキリストと交わりをすることが出来ると する、信仰の密儀化が起こりそうな時です。キリストを信じる信仰が個人的なこと、 秘儀的なことで、分かるものしか分からないという高慢さや、圧倒的な異教的な環境 の中で密かに自分の領域を守りたいという誘惑に駆られるとき、このメッセージが語 られます。キリストを「天においてご自分の右の座につかせ、すべての支配、権威、 勢力、主権の上に置いた」と、その存在をあえて政治的な言葉で語ることによって、 キリストの主権は全世界を包むものであること、公的なものであること、あらゆる主 権の上にあることを明らかにするのです。ここから、キリストを主と仰ぐ共同体であ る「教会」のこの世での位置と責任が明らかになります。父の右の座につかれたキリ ストを、「すべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会は、キ リストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です 」と語られるからです。キリストの主権が確立することが、わたしが確立し、共同体 が確立する唯一の道です。