ゼカリア書8:1-8;ペトロの手紙一1:13-25
公同の信仰告白は「生きている者と死んだ者をさばくために再び来られます」と主 イエス・キリストの再臨を告白します。これは、主イエス・キリストの未来に関わる ことであると共に、キリストのものであるわたしたちの将来に関わることです。それ だけでなく、この世界の終わりのあり方に関わることです。現在の世界は、国際テロ やSARSなどの人間と自然の脅威に直面して「おびえの共同体」とも言える様相を 呈しています。グローバルな規模で世界の終わり方を現実の問題として考えなければ なりません。この時代にキリスト者はどこに終極の希望のありかを求めるか、世界に 向かってどのような希望を証しし伝えるか、そのことがこの信仰の告白の中に含まれ ています。 主イエス・キリストが雲に乗って再び来られ、世の終わりが来るというような黙示 文学的なイメージによって語られている主の再臨について、そこから現実世界の在り 方を考えることは、容易ではありません。しかし、その出来事は、ベツレヘムの飼い 葉桶に起こったような世界の片隅に起こったようなことと違って「稲妻が東から西へ ひらめき渡るような」公然たる姿で人の子は来る、といわれます。それは人の心の中 や荒れ野で起こるのではなく、全世界を包む出来事です。従って、全世界に告げ知ら せなければなりません。しかも、その終わりは、いつ起こるのか、どのような徴があ るのかと思い煩うことではなく、わたしたちの罪のために十字架にかかられ、三日目 に復活されられ、天に昇って父の右に座しておられる主イエスが来られる時として覚 えるべきである、これが聖書の中心的なメッセージです。パウロの手紙の中に良く出 て来る「主の日」「主イエス・キリストの日」という表現によく注目する必要があり ます。終わりのときという側面と、その時にこそ救いの時、喜びの日の側面があって、 まさに分かれ目「危機−クライシス」の時です。従って、この時は得体の知れない無 気味な闇が世界を襲うのではないのです。キリストの日、そのときにおぼろげなもの が顔と顔を見るようにはっきりする、この朽ちるものが朽ちないものに変えられ、キ リストの復活の命にあずかる時です。終極を恐れの日、神の怒りの現れの日と見るの ではなく、主イエス・キリストにあって、恵みの時、喜びの日として待ち望む、この 希望がどのような現実をも貫いていること、この希望から現実を見ること、まさにこ こにキリスト者の信仰があります。