2月8日
2004年2月8日

「生きているものと死んだ者をさばくために」

申命記30:11-20;ペトロの手紙二1:3-13


 ニケヤ信条の主イエス・キリストに対する信仰の告白の最後は、再び来られる主と

最後の審判についてです。「生きているものと死んだ者をさばくために、栄光のうち

に再び来られます。」これは、古代のユダヤ人の黙示文学的な世界観で、キリスト者

はそれを継承した、と遠くの出来事を解説するテーマではなく、わたしたちの告白、

そして、わたしの告白となっているかどうかが問われています。生きているものと死

んだ者の裁きですから、わたしの終わりとかかわり、また、現在の生き方と関わって

います。

 「ハイデルベルグ信仰問答」52では、「生けるものと死んだ者をさばかれるため

のキリストの再臨は、あなたをどのように慰めるのですか」と問い、「わたしがあら

ゆる悲しみや迫害の中でも、顔を上げて、かつてわたしのために神のさばきに自らを

差し出し、すべての呪いをわたしから取り上げてくださった、まさにそのさばき主が

天から来られることを待ち望むようにです。・・・」と答えています。ここに最後の

審判について考えるべき大切なポイントがよく要約されています。まず、この信仰は

わたしたちへの慰めと希望に関わることであって、脅かしや恐怖を与えるためのもの

ではない、ということ、そして、その希望や慰めは、イエス・キリストが来られるこ

とにかかっている、ということです。「かつてわたしのために自らを差し出し、すべ

ての呪いをわたしから取り去ってくださった」主イエスがさばき主として天から来ら

れることを信じる、これ以外のことをこの信仰の中心に据えてはならない、というこ

とです。

 ペテロの手紙の中にある良く知られている言葉、「神の目には一日は千年に等しく、

千年は一日に等しい」という言い表しも、終わりの日の到来が、いつなのか、また、

どのような徴を伴うのかという思いわずらいと、いつまでも来ないといういらだち、

この信仰への嘲笑のなかに置かれていることをよく示しています。暗い終わりを予感

しつつ、それを考えないようにしようとする人間の思いが、再臨についての堅実な信

仰の土台を揺るがしています。終わりの時は、人間の時ではなく、主の時ですから、

人間の計算によらないで、慎んで主の時に備えなければなりません。聖霊によって主

のあわれみとその生きた働きを知っている人は、主がこの世をどのように裁かれるか

を既に知っています。だから、希望を持って待つことができるのです。


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