申命記30:11-20;ペトロの手紙二1:3-13
ニケヤ信条の主イエス・キリストに対する信仰の告白の最後は、再び来られる主と 最後の審判についてです。「生きているものと死んだ者をさばくために、栄光のうち に再び来られます。」これは、古代のユダヤ人の黙示文学的な世界観で、キリスト者 はそれを継承した、と遠くの出来事を解説するテーマではなく、わたしたちの告白、 そして、わたしの告白となっているかどうかが問われています。生きているものと死 んだ者の裁きですから、わたしの終わりとかかわり、また、現在の生き方と関わって います。 「ハイデルベルグ信仰問答」52では、「生けるものと死んだ者をさばかれるため のキリストの再臨は、あなたをどのように慰めるのですか」と問い、「わたしがあら ゆる悲しみや迫害の中でも、顔を上げて、かつてわたしのために神のさばきに自らを 差し出し、すべての呪いをわたしから取り上げてくださった、まさにそのさばき主が 天から来られることを待ち望むようにです。・・・」と答えています。ここに最後の 審判について考えるべき大切なポイントがよく要約されています。まず、この信仰は わたしたちへの慰めと希望に関わることであって、脅かしや恐怖を与えるためのもの ではない、ということ、そして、その希望や慰めは、イエス・キリストが来られるこ とにかかっている、ということです。「かつてわたしのために自らを差し出し、すべ ての呪いをわたしから取り去ってくださった」主イエスがさばき主として天から来ら れることを信じる、これ以外のことをこの信仰の中心に据えてはならない、というこ とです。 ペテロの手紙の中にある良く知られている言葉、「神の目には一日は千年に等しく、 千年は一日に等しい」という言い表しも、終わりの日の到来が、いつなのか、また、 どのような徴を伴うのかという思いわずらいと、いつまでも来ないといういらだち、 この信仰への嘲笑のなかに置かれていることをよく示しています。暗い終わりを予感 しつつ、それを考えないようにしようとする人間の思いが、再臨についての堅実な信 仰の土台を揺るがしています。終わりの時は、人間の時ではなく、主の時ですから、 人間の計算によらないで、慎んで主の時に備えなければなりません。聖霊によって主 のあわれみとその生きた働きを知っている人は、主がこの世をどのように裁かれるか を既に知っています。だから、希望を持って待つことができるのです。