エゼキエル書36:25-36;ヘブライ人への手紙13:7-18
ニケヤ信条は、主イエスの再臨の信仰を語った後、「その御国は終わることがあり ません」ということばで第2項を結んでいます。一切の装飾を切り落としたように、 主イエス・キリストがわたしたちのために果たしてくださった救いの要件だけを並べ た文章の中で唯一、頌栄的な響きのあることばです。押さえていた気持ちが一挙にほ とばしるように・・・。このような言葉を高らかに告白し神を讃美する信仰者は、ど のように生きた人なのでしょう。325年にニケヤ会議にあつまった81人の司教た ちの中には、長い間のローマ帝国の迫害によって、障害を負った人たちも加わってい たと伝えられています。迫害を生き抜いて来た人たち、この世の権力の凄まじさと無 常、人間のもろさと弱さ、罪の深さを知り尽くしている人たちです。歴史を生き抜い て来た教会の確信、「キリストの御国は終わることがない」が、この人たちの生き抜 く力であったのです。しかし、これはただ古代の迫害に耐えたキリスト者の信仰告白 として認識するのではだめです。この信仰告白はわたしたちの教会の、そして現代に 生きる人々の魂の深みからの告白にならなければなりません。 「御国」、「神の国」、「天国」について真剣に語る伝統は近代の社会では失われ てしまったようです。天国は私的な世界の専有物、また精神科医療の対象、もしくは、 エンターテーメントの領域です。しかし、健全な天国の想念を失った世界は、「自分 とは何か」「他者とは何か」「自然や宇宙は何か」と言う根本の問い合わせから沈黙 の答えしか聞き取っていない、天国から見放された状況を呈しています。この世界の 中で、キリスト者は御言葉に従って天国を語ります。「その御国は終わることがない」 と。このように語る背後に、二つの意味が込められています。この世の国は終わる、 ということと、御国はキリストの国であって、キリストのご支配を待ち望むというこ とだ、ということです。今あるもの、目に見えるものは過ぎ去って行くもの、終わり を持つものであることに目覚め、今生きていることは旅人、寄留者の生であると知る ことは挫折を経験することです。しかし、挫折に終わるのでなく、そこでわたしたち の救いのために人となられたキリスト、罪のために十字架につけられたキリストに出 会います。キリストは「昨日も、今日も、いつまでも変わることのない方」であるこ とを知っているから、わたしたちも御国を待ち望むことができるのです。