エゼキエル書37.1-14;テサロニケ一1.2-10
ニケヤ信条の学びは第三項、聖霊を信じることにはいります。キリスト者は、洗礼 の時「聖霊を信じますか」と問われ、「信じます」と答えて主のものとなりました。 わたしたちの歩みはさまざまな経験を重ねることによって、「聖霊を信じます」と答 えたことがいよいよ現実的に、また明確になって行く歩みになっているでしょうか。 信仰生活はそのようなものであるはずです。 わたしたちが信仰告白において「聖霊を信じます」と告白するのは、「聖霊」なる ものの実在を信じます、という意味ではありません。わたしたちの有限のものは神の ような無限のものを捉えることはできませんから、聖霊の実在を捉えたり操ったりし ようとすることは不遜なことです。聖霊を信じると言うことは、御父、御子、聖霊に おいて働かれる唯一の神が、確かにわたしたちとかかわりをもっておられること、わ たしたちはそれによって生き、また、救われていることを信じる、ということです。 聖霊がわたしたちのうちにも働いて、主イエス・キリストを覚えるものとされ、「天 の父よ」と祈るものとされていることを信じる、ということです。そのように、御父 と御子とのかかわりのうちにある聖霊を信じることが核心的なことです。ちょうど、 電気エネルギーはわたしたちが存在する以前からそれについて知らなくても働いてい ますが、それについて深く知ることによってわたしたちの生活が一変したように、聖 霊の働きについての視野が広がることによって、神について、人間について、世界に ついての見方が一変します。また過った用い方が致命的な危険をもたらすように、聖 霊についても、正しい理解をもたなければ、大きな混乱と闇に出会います。ニケヤ信 条は、御父と御子と共に礼拝される聖霊を信じると告白することによって、聖霊を信 じる正しい道を教えているのです。「聖霊を信じます」ということばが出て来る背後 に、聖霊を神の造られたもの、神の道具、天使と同じようなものと考え、御父と御子 と共に礼拝されるものとは信じない人々がいました。聖霊の生き生きとした働きはペ ンテコステを経験した初代教会の人たちには珍しいことではありません。キリストを 信じることによって与えられる力と強い確信があったのです。しかし、その力と確信 を、人間の精神作用、自然現象、人を操る道具と見ると危険です。神の霊、キリスト の霊として、わたしたちのうちに生きて働いておられる神、それが聖霊です。