イザヤ書59:16-21;ヨハネによる福音書15:16-16:15
ニケヤ信条の聖霊についての告白には、聖霊が「父と子から出る」と語られていま す。実は、この小さな言葉が教会の歴史をひもとくと大変大きな問題となったところ、 東方教会とローマ・カトリック教会、聖公会。プロテスタント教会を分裂させている ところであることが分かります。元来、381年にニケヤ・コンスタンチィノポリス 信条が成立した時は、「父から出て、父と子と共に礼拝され」となっていました。5 89年トレド会議において「子から」という言葉が加えられたのです。東方教会はこ の付加に対して激しく反対し、分裂に至りました。ラテン語で「フォリオクエ」とい う言葉ですから、これをフィリオケ論争といいます。無用な神学論争の典型として揶 揄されることもあり、複雑な進学論争に分け入る必要はありませんが、しかし、この ような論争が聖書の語る聖霊をより性格に捉える手がかりになるのは確かです。 ヨハネによる福音書には、聖霊が「弁護者(パラクレートス)」として、主イエス がいなくなってから後にわたしたちのところに遣わされることが約束されています。 そこでは、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわ ち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方が、わたしについて証をされる」 と記されています。ここで、父と子と聖霊の関係を正しく把握するのは簡単ではあり ません。聖霊は主イエス、すなわち御子が遣わすものです。しかし、主イエスは自分 の中にある聖霊ではなく「父のもとから出る真理の霊」を遣わされるのです。そして、 聖霊はキリストについて証をします。聖霊の働きがなければ世はキリストを知ること も、また父を知ることもありません。聖霊が「父から出る」という表現、そして、 「父と子から出る」という表現は両者ともに可能であると知ることができます。しか し、聖霊は、父と子の口から出ることばや力といったものとしてではなく、「父は別 の弁護者を遣わして永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と語られる ように、一個の位格を持った方であることも明らかです。 聖霊はこのように父と子の交わりのなかにわたしたちを招き入れてくださる、わた したちにとって最も身近なお方です。しかし、また聖霊はご自身を隠しておられ、聖 霊が働くとき主イエスを思い起こし、「アバ父よ」と祈るものとなるのです。