イザヤ書6:1-8;使徒言行10:34-48
ニケヤ信条の学びから、神を父、子、聖霊の三位一体において知り、また礼拝する ことによって、」わたしたちが信じる神はどのような方であるか、わたしたちの救い の根源は、まさに神の本質の内に求めることができることを学んできました。聖霊も また、父と子と共に礼拝されるべきだと教えています。この意義を正しく知るならば、 わたしたちの生活は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感 謝しなさい」ということが、当然のようにできるようになります。 聖霊を父と子と共に礼拝することは、独特の困難さが伴います。聖霊はわたしたち の上や、わたしたちのそばにではなく、わたしたちの直中で働かれるからです。「神 はわたしたちにご自分の霊を分け与えてくださいました。このことからわたしたちが 神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります(T ヨハネ4:13)と語られるように。神の霊がわたしたちの内にとどまるとき、わた したちは御子・主イエスを知り、主の御名によって「アバ・父よ」と祈るものとなり ます。神の愛がわたしたちの内にとどまり、神を愛し、また隣人を愛することができ るものとなります。聖霊がわたしたちの内にとどまるとき、わたしたちは自分の愛が どれほど限界のある小さなものであるかに気づかされるのです。「聖霊は、聖霊を与 えられた父と子の霊であるだけでなく、聖霊を受け取ったわたしたちの霊でもある」 とアウグスティヌスは語ります。聖霊はこのような方ですから、わたしたちは、しば しば聖霊と自分の思いとを見分けることが出来なくなります。自分の思いが聖霊の働 きと見誤ったり、聖霊の働きを自分の力と見誤ることがあるのです。 御言葉によって、聖霊の働きを深く学ぶことがなければなりません。使徒言行録は 「聖霊行伝」とも言われるように、聖霊の働きについて生き生きとした証言ですが、 その中でローマの百人隊長コルネリウスの回心の出来事、異邦人が洗礼を受け福音が 民族の壁を超えた出来事でも、主役を演じているのは聖霊です。聖霊はヤッファから 来たペトロの話しを聞いたコルネリウスとその家族、友人に下り、異言を語ったり神 を讃美したりする熱狂をあたえたことによって、その働きを表しているばかりではあ りません。コルネリウスを動かしペテロを動かしている源です。