4月11日
2004年4月11日

「わたしは主を見た」

イザヤ書50:1-11;ヨハネによる福音書20:1-18


 主の復活の朝を記念するこの朝も、世界のいたるところで十字架が新しく建てられ

ています。人間の罪がもたらすむなしい象徴として・・・。主がもたらしてくださっ

た新しい命に、この世界はあずかることができるのでしょうか。

 ヨハネ福音書は、マグダラのマリアによって「わたしは主を見ました」と言う力強

い知らせを伝えています。その驚くべき出来事に出会って、それを知り、見て信じる

までに、どれほどの厚い不信の壁を乗り越えなければならなかったかについても、生

き生きと伝えています。マリアは石が取り除けられている墓を見、そのことをペトロ

や主の愛しておられた弟子に告げ、二人が墓に残された布切れを確認した時、「見て、

信じた」と語られます。もし、ここで主の復活の確認が行われ、その使信が世界中に

伝えられたとしたら、単に空の墓の伝説と復活の迷信が伝えられたに過ぎないでしょ

う。ないものによってあると信じているのですから。実際は何もないのに、あるかの

ように信じるよう誘導するのは、宗教の歴史でも政治の歴史でもおなじみのことです。

しかし、マリアは、そこに止まっていることができませんでした。マリアは、墓の外

で泣いている。泣いていることは、ここではとても大事なことです。「何故、泣いて

いるのか」と何度も問いかけられていますから。問いかけられるのは、マリアの後ろ

に立っている主イエスその人です。マリアはそれに気づきません。「マリアよ」と、

主が名を呼ばれた時、はじめて目が開かれます。復活の主がご自身の姿を現されるの

は、まことに、そのように一人の名を呼んでくださることによって起こる上からの出

会いであることを知らされます。

 しかし、驚くべきことに、このように主の復活の姿に出会うことが究極のこと、最

後のこととして伝えられてはいないのです。マリアにとっても、その後主に出会った

弟子たちにとっても、その出会いは一過性のものに過ぎません。「わたしの兄弟たち

のところに行って、こう言いなさい。わたしの父であり、あなたがたの父である方、

また、わたしの神であり、あなたがたの神である方の所へわたしは上る、と」。復活

の主に出会うものは、この新しいメッセージを託されます。主イエスの父、また神を、

わたしたちの父、また神と呼ぶことができる。復活の主は、この新しいメッセージを

わたしたちにも託されます。


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