エレミヤ書31:10-17;コリントの信徒への手紙U12:12-30
ニケヤ信条の最後、教会を信じる信仰に学びを進めます。まず、初めに、教会の取 り上げ方に注目しましょう。「ただひとりの神、すべてを支配される父、造り主を信 じます」、「ただひとりの主イエス・キリストを信じます」、「聖霊を信じます」、 と三位一体の神を信じるという告白に並んで、「私たちは・・・教会を信じます」と いうのです。「教会は・・・父、御子、聖霊を、信じます」というのではなく、教会 を信じますとなっているのは、不思議な感じがします。「一つの、聖なる、公同の、 使徒的な、教会を信じます」というのも、ここに挙げられている四つの性格を持った ものだと信じる、ということではなく、「わたしたちは教会を信じる」ということが 中心です。これはどういうことなのでしょう。 教会は、人間の集まり、礼拝の共同体です。主が呼び集めてくださった集まり、 「二三人がわたしの名によって集まっているところには、わたしもその中にいる」と 主が約束してくださったことを信じつつ、礼拝をしている人間の集まりです。しかし、 私たちが礼拝している教会は、私たちの中にあるものであると共に、私たちの外にあ るもの、私たちの理解し把握し、動かしていると思っているものよりもはるかに大き く、神秘的なもの、霊的なものです。それは、私たちもその中の一員ですが、私たち のものであるとともに、私たちのものではありません。私たちは教会によって三位一 体の神との交わりの中にいれられ、その命にあずかります。教会は、聖霊を信じるこ とに続き、聖霊の交わりの現実化、具現化です。従って、「教会を信じる」というこ とは、教会の中にいる人を信じる、とか、教会で語られていることが真実だと信じる、 とか、教会は人類の歴史の中で意義のある働きをしたと信じる、ということではあり ません。私たちの信仰が教会を造り上げ、活発にする、というのでもありません。父、 御子、聖霊である唯一の神はこの人間の現実の中に、教会を造り出し、人々を呼び集 め、ご自身に従う民を集めてくださる、このことを信じるところで、教会は生き生き と、成長をはじめます。 聖書の中でしばしば、「教会はキリストの体」といわれます。「あなたがたはキリ ストの体であり、また、一人一人はその部分です」と。それはただ教会を体にたとえ て、一体性を持たせようとしているのではありません。キリストをかしらとする目に 見えないキリストのからだである教会の神秘を現しているのです。