199800405
1998年4月5日

「キリストにおける神の選び」

エフェソの信徒への手紙1章1−14


 「神はわたしたちをキリストにおいて天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださ

いました。天地創造の前に神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なるもの、汚

れのないものにしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリス

トによって神の子にしようと御心のままに前もってお定めになったのです。」

 エフェソの信徒への手紙の講解説教を始めます。一見神学論文のように見えるこ

の難解な手紙の中に潜む壮大な神の計画、キリストの体である教会とキリスト者が

召された目的にしばらく関心を合わせましょう。その最初の長い神に対する感謝と

讃美の中で、神の選びと予定について思い起こしているのが上記の言葉です。感謝

と讃美はそれによって自分が何者でであるかを明らかにするものですから、どのよ

うな感謝と讃美をささげているかによって、その人が自分をどのように捉えている

かがわかります。ここに表されているような感謝をささげるということは、どのよ

うな自己理解を持っているのでしょう。

 「天の霊的な祝福で満たし・・・」というのはわかります。わたしたちが主イエ

ス・キリストを信じることによって与えられるものは、この地上での祝福ではあり

ません。肉体的な欲望の満足、死と共に終わってしまうような祝福ではないものを

いただいているのは確かです。しかし、「天地創造の前にキリストにおいてお選び

になった」というのはどういうことでしょう。わたしの今についてさえよくわから

ないものが、どうして天地創造の前から選ばれたといえるのでしょう。まだだれも

存在しなかったときのこと、時が存在しなかったときのことを、どうして確信を持

って言うことができるのでしょう。ときどき聖書はこのような種類の讃美と感謝を

するのに出会いますが、わたしたちはこれにどのように声を合わせることができる

でしょうか。

 「神がわたしたちをキリストにおいて選んでくださった」という表現は、「わた

しがキリストを選んだ」「わたしが信じた」「わたしが従ってきた」ということと

は反対のことを言っていると理解すると全体が見えてきます。わたしの生も死も、

信仰も行為も、その根源とはじめを、自分の中にはおかず、キリストによって示さ

れた神の愛とその愛が、特別に他ならぬわたしにわたしの選びとなって示されたと

いうことにおいているのです。そして、この神の愛にわたしの存在の一切の根源と

はじめをおいているならば、それは天地創造のはじめから神の御思いの中にあった

ということができるでしょう。神の永遠の選びがわたしのはじめと信じるならば、

「予定の教理ほど神の尽きることのない慈愛を考察させ、感謝へと奮い立たせるの

に有益な教えはない」とカルヴァンが言うのももっともです。

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