ネヘミヤ書8:8-12;エフェソの信徒への手紙2:11-22
わたしたちは「教会」に集って、共に礼拝をしています。この教会とは一体何であ るのか、教会の生命の中心に向かって、さらに学びを進めましょう。「教会」はエク レーシアというギリシャ語を日本語に訳したものですが、この意味は、「呼び集めら れたもの」「集会」ということで、「神が主イエスの名によって全世界から呼び集め てくださった人々のあつまり」を表しています。また、英語では教会のことをChu rchといいますが、これもギリシャ語のキュリアケーからきていて、その意味は 「主に属するもの」ということです。教会は人間のものではなく、主イエス・キリス トのもの、という趣旨です。「教会を信じる」というとき、わたしたちは重なり合っ た三つの次元のことを言っていることになります。すなわち、今ここに礼拝している 仲間の集会、個々の集会、そして、全世界に広がっている教会、全世界を包む教会、 さらに、キリストの神秘に預かっている教会、「教会はキリストの体であり、すべて においてすべてを満たしている方の満ちておられる場」としての教会です。従って、 宗教改革者たちは、教会を「目に見える教会」と「目に見えない教会」に分けること を好みますが、これは、しかし、、「現実の教会」と「理想の教会」に分けるという 意味ではなく、人間の集まりに過ぎない「教会」と「天地創造の前に神によって選ば れ、キリストの血によって罪からあがなわれ、キリストの体の枝とされ、永遠の命に あずかる聖徒の集まり」と結びついている、ということです。 エフェソの信徒への手紙は、全編が教会とは何かについて深く教えられる書物です が、「キリストはわたしたちの平和であります」と語られる、2:11−22にある 「わたしたち」と「あなたがた」は、どういう「わたしたち」であり、あなたがた」 であるかをよく知ることは大切です。「双方をご自分において一人の新しい人に造り 上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架 によって敵意を滅ぼされました・・・。」教会は、このようにキリストに呼び集めら れ、キリストに合わされ、キリストの命を与えられて、敵対する「あなたがた」と 「わたしたち」が和解し、一つの体にされている集団です。現代の世界でもっとも必 要とされる場所として、ここに人々が集められなければなりません。また、そこから、 和解と平和に向かって大きな運動を起こさなければなりません。