5月2日
2004年5月2日

「教会の神秘」

ネヘミヤ書8:8-12;エフェソの信徒への手紙2:11-22


 わたしたちは「教会」に集って、共に礼拝をしています。この教会とは一体何であ

るのか、教会の生命の中心に向かって、さらに学びを進めましょう。「教会」はエク

レーシアというギリシャ語を日本語に訳したものですが、この意味は、「呼び集めら

れたもの」「集会」ということで、「神が主イエスの名によって全世界から呼び集め

てくださった人々のあつまり」を表しています。また、英語では教会のことをChu

rchといいますが、これもギリシャ語のキュリアケーからきていて、その意味は

「主に属するもの」ということです。教会は人間のものではなく、主イエス・キリス

トのもの、という趣旨です。「教会を信じる」というとき、わたしたちは重なり合っ

た三つの次元のことを言っていることになります。すなわち、今ここに礼拝している

仲間の集会、個々の集会、そして、全世界に広がっている教会、全世界を包む教会、

さらに、キリストの神秘に預かっている教会、「教会はキリストの体であり、すべて

においてすべてを満たしている方の満ちておられる場」としての教会です。従って、

宗教改革者たちは、教会を「目に見える教会」と「目に見えない教会」に分けること

を好みますが、これは、しかし、、「現実の教会」と「理想の教会」に分けるという

意味ではなく、人間の集まりに過ぎない「教会」と「天地創造の前に神によって選ば

れ、キリストの血によって罪からあがなわれ、キリストの体の枝とされ、永遠の命に

あずかる聖徒の集まり」と結びついている、ということです。

 エフェソの信徒への手紙は、全編が教会とは何かについて深く教えられる書物です

が、「キリストはわたしたちの平和であります」と語られる、2:11−22にある

「わたしたち」と「あなたがた」は、どういう「わたしたち」であり、あなたがた」

であるかをよく知ることは大切です。「双方をご自分において一人の新しい人に造り

上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架

によって敵意を滅ぼされました・・・。」教会は、このようにキリストに呼び集めら

れ、キリストに合わされ、キリストの命を与えられて、敵対する「あなたがた」と

「わたしたち」が和解し、一つの体にされている集団です。現代の世界でもっとも必

要とされる場所として、ここに人々が集められなければなりません。また、そこから、

和解と平和に向かって大きな運動を起こさなければなりません。


秋山牧師の説教集インデックスへ戻る

上尾合同教会のホ−ムペ−ジへ戻る