5月16日
2004年5月16日

「キリストにおいて一つである教会」

アモス書5:4-9;コリントの信徒への手紙1:12-26


 聖霊を信じることは、必然的にその働きの生きた実りである協会を信じることへと

導きますが、その教会について、ニケヤ信条は、「一つの、聖なる、公同の、使徒的

な」教会、と4つの特質があることを明らかにしています。これらの特質は聖霊がキ

リストの賜物をわたしたちに注いでくださる時に実現されたもの、また終わりの日に

完成させてくださる特質です。

 教会が全世界に広がり、さまざまな主張や違いがあるにもかかわらず「一つ」であ

るのは、どのような根拠によってなのでしょう。ペンテコステの日に聖霊を受けた最

初のキリスト者たちの共同体の様子を使徒言行録は伝えています。「使徒たちは皆一

つになってすべての者を共有し、財産や持ち物を売り、各々必要に応じて皆がそれを

分け合った。そして毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集ってパンを

裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし髪を讃美していた・・・。」ここには、さ

まざまな領域にわたって一つであることが強調されています。しかし、このような食

卓や財産の共有にいたるまでの「一つ」は長く続きませんでした。初代教会の中には、

ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間に心を一つにすることはできにくい状況

がありましたし、それに続く教会の歴史を見ても、教会が一つであるということはと

てもいえません。ローマ・カトリック、東方教会、プロテスタント教会、その他、教

会は分裂につぐ分裂の歴史です。「信仰は一つ、教会は一つ」というのは単にかけ声

に過ぎない、建前に過ぎないのでしょうか。

 このような歴史の現実にもかかわらず、教会は「一つ」であるのは、「教会はキリ

ストの体、一人一人はその枝」という事実以外に根拠はありません・そこに集まって

いる人々の心が一つ、熱心さが一つ、信仰や服従の姿勢において一つではないのです。

そのようなことにおいて一つになろうとしても一つになりきれない人々を教会はうち

に含んでいます。キリストが一つであり、聖霊が一つであるから、教会は一つなので

す。そして、そのキリストの体に合わされるものとして洗礼を受け、キリストの体と

血を飲むものとしてキリスト者は新しく生まれ変わらせられたものです。したがって、

わたしたちはキリストに結びつくことなしには一つになれません。しかも、キリスト

はわたしたちを全く違うものでありつつ、一つの体に結び合わせてくださっているの

です。


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