ゼファニヤ書3:14-20;エフェソの信徒への手紙5:21-33
ニケヤ信条は、教会を「聖」なるものと信じ告白しています。そして聖書はキリス トに連なるわたしたちのことを「聖徒」と呼んでいます。確かに、わたしたちの中に は、日常的なものを超えた聖なるものに対する憧れが潜んでいます。心が洗われるよ うな清らかな自然、純粋な混じりけのない愛、心震わせるような美しい出会い、これ らを求めて止みません。「聖性」への感覚は「世俗的」といわれる日本人の中にも深 く流れていることはさまざまな場面で出会うことができます。しかし、わたしたちが 教会とキリスト者について語る内容の多くは、教会の「俗性」、キリスト者がいかに 聖ならざるものかについてではないでしょうか。教会が「聖」なるものであると信じ、 その聖にあずかって生きることは、単なる理想、夢、物語の中だけに存在する生き方 であるとすれば、まことにその信仰は空しいものとなります。 教会が聖なるものと信じ、聖なるものに向かって成長する力の源がどもにあるのか をはっきりと確認していなければ、見当違いの見方が生じ、偽善を生み出す努力が始 まることになります。教会が「聖」であるのは、主イエス・キリストの聖性に合わさ れるものであって、教会に集う一人一人の聖なる人格が「聖性」を作り上げるのでは ないのです。主イエス・キリストの十字架と復活の恵みが一人一人の心に刻まれて、 主の人格と一つにされるとき、教会は聖なるものとなります。その働きは聖霊によっ て止むことがありません。教会は罪人の集まりです。しかし、聖霊の働きによって、 既に罪に勝利し、凱旋行進に連なる罪人の集まりです。エフェソの信徒への手紙には、 キリストが教会を聖なるものにするために、どのようなことをされたかを記していま す。「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったのは、言葉を伴 う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのもの は何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためで した。」このようなキリストの決意、キリストの働き、その愛の成果として、しみも、 しわも、そのたぐいのものが何一つない聖なる教会があるのです。キリスト者の「聖 性」は、はるか上にあるものを求めると言うより、わたしたちのために知に下り、十 字架の死に至るまで低くなられたキリストのへりくだりに合わせ、悔い改めの歩みを 深くすること以外のものではありません。