5月30日
2004年5月30日

「”聖”である教会」

ゼファニヤ書3:14-20;エフェソの信徒への手紙5:21-33


 ニケヤ信条は、教会を「聖」なるものと信じ告白しています。そして聖書はキリス

トに連なるわたしたちのことを「聖徒」と呼んでいます。確かに、わたしたちの中に

は、日常的なものを超えた聖なるものに対する憧れが潜んでいます。心が洗われるよ

うな清らかな自然、純粋な混じりけのない愛、心震わせるような美しい出会い、これ

らを求めて止みません。「聖性」への感覚は「世俗的」といわれる日本人の中にも深

く流れていることはさまざまな場面で出会うことができます。しかし、わたしたちが

教会とキリスト者について語る内容の多くは、教会の「俗性」、キリスト者がいかに

聖ならざるものかについてではないでしょうか。教会が「聖」なるものであると信じ、

その聖にあずかって生きることは、単なる理想、夢、物語の中だけに存在する生き方

であるとすれば、まことにその信仰は空しいものとなります。

 教会が聖なるものと信じ、聖なるものに向かって成長する力の源がどもにあるのか

をはっきりと確認していなければ、見当違いの見方が生じ、偽善を生み出す努力が始

まることになります。教会が「聖」であるのは、主イエス・キリストの聖性に合わさ

れるものであって、教会に集う一人一人の聖なる人格が「聖性」を作り上げるのでは

ないのです。主イエス・キリストの十字架と復活の恵みが一人一人の心に刻まれて、

主の人格と一つにされるとき、教会は聖なるものとなります。その働きは聖霊によっ

て止むことがありません。教会は罪人の集まりです。しかし、聖霊の働きによって、

既に罪に勝利し、凱旋行進に連なる罪人の集まりです。エフェソの信徒への手紙には、

キリストが教会を聖なるものにするために、どのようなことをされたかを記していま

す。「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったのは、言葉を伴

う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのもの

は何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためで

した。」このようなキリストの決意、キリストの働き、その愛の成果として、しみも、

しわも、そのたぐいのものが何一つない聖なる教会があるのです。キリスト者の「聖

性」は、はるか上にあるものを求めると言うより、わたしたちのために知に下り、十

字架の死に至るまで低くなられたキリストのへりくだりに合わせ、悔い改めの歩みを

深くすること以外のものではありません。


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