4月6日
1997年4月6日

「わたしを顧みられる神」

創世記16章1−16


 「サライはアブラムに言った。『主はわたしに子どもを授けてくださいません。

どうぞわたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって子どもが

与えられるかもしれません』。そこでアブラムはサライの願いをすべて聞いた」。

 ここには平和な家庭の平和でない状況がえがかれています。信仰の父アブラムと

信仰の母サラの信仰的とはいえない決断とその結果の物語です。「主はわたしに子

どもを授けてはくださいません」というサラの嘆き、これは原語では「わたしは子

どもを産むことから閉め出されている」という強い疎外感、あるいは「子どもを産

めないように閉じこめられている」という深い閉塞感が感じられます。これは信仰

の問題です。いや、約束の遅延の問題です。主はアブラハムに、「あなたの子孫を

多くする」と約束されましたが全く実現しません。10年間何の見通しもないまま

に約束の実現を待つことができるか、サラでなくてももう結論を出してもいいとき

です。そして実際に苦渋の選択をします。自分の女奴隷であったハガルによって子

どもを得ようとしたのです。そして首尾はうまくいきました。予定どおりハガルは

アブラハムによって身ごもったのです。しかし、ハガルは自分が身ごもったのを知

ると女主人を目のはしで軽く扱うようになったのです。思わぬ展開が待っていまし

た。

 ここには半分の信仰によって生きている人の姿が描かれています。主の約束を信

じてはいるが、信じることを貫けない信仰、主の約束がどれほど大きく無限である

かについて十分に信じることができない半分の信仰です。半分の信仰は半分の成就

しか得ることができません。喜びを産み出しただけでなく半分の死の影も産み出し、

そして、やがて生の中にある死の部分が生の部分を脅かし始めるのです。半分の信

仰の故に機械的にことを運んだ者よりももっと大きな傷を負うようなこともあるの

です。アブラハムの家庭の場合も最も弱い部分を切り捨てるというかたちで解決が

図られました。ハガルが行くあてもないままで家から逃げ出し消え去ろうとしたの

です。信じて待つことについて半分の信仰によって応えたことによって起こった出

来事、典型的な出来事が信仰の父と母の家庭でもあったことを伝えています。

 しかし、物語はここでおわるのではありません。このように逃げ出したハガルに、

主の使いが荒れ野の泉のほとりであらわれ、「あなたはどこから来たのか。あなた

はどこへ行くのか」という印象的な二つの問いをもって介入します。この当たり前

のように見える、しかし人生の中で最も根源的な問いによって、ハガルは自分をも

う一度見る機会が与えられています。自分の人生を自分の目で見ることができたと

き、自分の人生を見てくださっているお方の目もまた感じたのでしょう。この問い

によって人生のどん底、出口なしの状況で自分を投げ出しそうになっているところ

から立ち上がり、立ち帰っています。ハガルは主の御使いにたいして、主の名を呼

んで「わたしを顧みられる神」といい、産まれる子どもをイシュマエル「神は聞か

れる」と名付けます。この弱い暗い人生にも、主のまなざしを感じたからでしょう。

 アブラハムやサラに主なる神は呼びかけられないで、奴隷の女ハガルに御使いを

使わされたことに深い意味があります。神はこの最も弱い部分に目をとめて救いの

手を伸ばし、立ち帰らせ、神の顧みがあることをみんなに知らせているからです。
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