6月6日
2004年6月6日

「教会は公同・普遍」

詩篇36:6-10;コロサイ1:15-22


 ニケヤ信条は、教会を「公同の」教会と信じる、と明言しています。「公同」カト

リック、ということで、わたしたちプロテスタントの教会も、教会がカトリックであ

ると信じる、と告白するのです。「カトリック」とは、普遍的であるということ。キ

リストの教会は、どこでも、いつの時代にも、一つの聖なる教会としてあることを表

明しています。従って、境界は孤立的、独善的、排他的、分派的な教会ではありえな

い。今わたしたちが、父、御子、御霊においてご自身をわたしたちに示してくださる

唯一の神を信じて、ともに礼拝していますが、この礼拝の共同体は世界中どこにも仲

間を見出すことができるし、1000年前の礼拝者もわたしたちと同じ方を礼拝して

いた、といいうる。そのような教会の独特の性格を表明しています。

 教会はそのようなカトリック性はどこに根拠があるか、2世紀初めの教父イグナチ

ィウスは、「イエス・キリストのいるところはどこでもカトリック教会がある」とい

いました。このことはとても大切なことを語っています。教会の普遍性は、人間的な

権力や富によって生まれるのではなく、また、強力な中心的な教会が他の地方的な教

会を圧倒することによって生じるのでもありません。主キリスト・イエスのもとに集

められた群れに、そこにカトリック性があるのです。聖霊を受けた使徒たちが、わず

かな群れでありましたが、議会で尋問された時、主イエス・キリストの名を高らかに

唱えて、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか人間には与えられて

いないのです」と語ったところに、教会のカトリック性が最も明瞭に表明されていま

す。

 したがって、世界全的の教会がカトリック性をあらわしていると共に、個々の教会

も、そして、一人一人のキリスト者も、一人一人に分かたれているが、しかし、公同

の教会に連なっており、その生き方においても、キリストの内にあるカトリック性に

あずかって、時空に無限に広がるものをもっている、ということができます。コロサ

イの信徒への手紙では「地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子

によってご自分と和解させられたのは、神の御心のままに満ち溢れるものを余すとこ

ろ無く御子のうちに宿らせた」からだと記しています。教会は御子の満ち溢れるもの

を持つゆえに、まことにカトリック性を持つのです。



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