6月20日
2004年6月20日

「使徒的な教会を信じる」

申命記6:11-21;Tコリント15:1-11


 ニケヤ信条の「教会を信じます」という告白は、「使徒的な」という修飾語が「一

つの、聖なる、公同の」という言葉と並んで記されています。わたしたちが所属すし、

主の命と交わりを持つ教会が、「使徒的な」教会であると信じ、教会はそのようなも

のでなければならないと表明しているのです。使徒とは、言うまでもなく、主イエス

の弟子たちのこと、主の近くでその言葉を聞き、主の十字架の死を目の当たりにし、

復活の主に出会った人たちのことです。主イエスはこの人たちを復活の証人として全

世界に遣わされ、福音を宣教する使命を託されました。「使徒」とは、「遣わされた

者」という意味です。それにしても、わたしたちの教会が2000年前の使徒たちの

教会であると告白するのは、どのような意味があるのでしょうか。

 二世紀の教父テルトウリアヌスは「使徒的」という言葉が持つ二つの意味を明らか

にしています。一つは、全世界に広がる無数の教会は使徒たちの宣教によって生まれ

たもので同じ起源を持つということ、二つは、同じ起源を持つものとして、同じ信仰

の伝承を受け継いでいる、ということです。2世紀ごろ教会のなかに霊の導き、より

高い知識と称して使徒たちが伝えた福音とは異なるキリストの理解、閉鎖的で放縦な

生活態度をとるものが現れてきました。これに対して、健全で堅固な信仰の共同体と

なるために、「教会の使徒性」が大切な基準となることが公同の教会の中で自覚され

てきました。使徒たちの証しし貫いた信仰と生活、が信仰の真理の「権威ある規準」

となりました。

 しかし、教会は「キリストの体」であって、「すべてのものをすべてにおいて満た

している方が満ち満ちているところ」です。まことの権威は「使徒」という人間的な

権威に置くのではなく福音の真理が優位を占めなければなりません。それにもかかわ

らず、教会が「使徒的」でなければならないと信じることは、キリストの受肉、十字

架、復活の歴史的な出来事が、ペトロやヨハネやパウロといった具体的な人物の人生

に確かに切り結び、その人々の証しを通して神の救いの出来事として告げ知らされ、

信仰の共同体が生まれる、このことの大切さを明らかにしています。そのつながりを

軽視して、勝手に福音に何かを加えたり、何かを除外したりするところにサタンの働

き場を与えることになります。


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