詩篇55:1-21;ローマ6:1-14
わたしたちの公同の教会の信仰告白であるニケヤ信条の最後に「罪の赦しのための 一つのバプテスマを信じます」とあります。この短い言葉の内にある豊かな内容をた ずね求めましょう。 これまで、天と地のすべてのものの造り主である父なる神、父と同質である御子、 人となり十字架につけられ、三日目に復活し、天にのぼられた神の御子イエス・キリ スト、命のあたえ主である聖霊の三位一体の神を信じる、と告白し、公同の使徒的な 教会を信じることを公にしたこの信仰告白は、ここで、わたしたち一人一人と直接に 関係する言葉を言いあらわしています。「この信仰の宣言全体が、神の民の日々の生 活の中で実際的な福音となって生きた働きへとつながってゆく」(トーランス)ため です。教会の信仰はわたしたちに起こった出来事と結びついています。わたしたちは、 洗礼の度ごとに、バプテスマにあずかるということは、もはや罪の中に生きることは ありえない、キリストと共に死んで葬られ、罪に対して死んだのであるから。また、 バプテスマによって生きるものは、主イエスの復活の命にあずかって生きるのもであ って、もはや罪のうちに死ぬことはありえない、とのローマの信徒への手紙の力強い みことばを読み、「アーメン」ととなえて、このみ言葉の事実に、自らの全生活をあ ずけることを誓約しました。この大いなる約束は、もはや、そのみ言葉は、昔の言葉、 あるいは、外の言葉ではなく、わたしたちの内なる言葉となり、三位一体において今 生きて働かれる唯一の神との真の関係の中にはいったのです。従って、ここにわたし たちと共におられ、わたしたちを命に導く聖三位一体とわたしたちが結びつく接点、 一つの、聖なる、公同の使徒的な教会とわたしとが結びつく接点が、「罪の赦しのバ プテスマ」であることを言いあらわしています。ここにはキリスト者の「敬虔な認識」 があります。わたしたちの知識や求めが主イエスとわたしたちを結びつけるのではな く、わたしたちの宗教心が神を呼ぶのではなく、わたしたちの罪において関わってく ださる主を主と呼ぶのです。それが「平和の絆」によって、主にある兄弟姉妹と結び つける接点となります。 4世紀の教父アタナシウスは、「バプテスマの内に満ちあふれる神秘のすべてが宿 っている。なぜなら、わたしたちは父と子と聖霊の名によってバプテスマを受けたの だから」、といっています。わたしたちに与えられた恵みをよくかみしめてみましょ う。