7月11日
2004年7月11日

「死者の復活を信じる」

ホセヤ6:1-3;Tコリント15:12-28


 上尾合同教会の44周年の歩みを記念するとき、わたしたちの教会は、わたしたち

のものではなく、キリストのものであることを確認し、一つの、聖なる、公同の、使

徒的な教会の信仰に連なる教会でなければならないことを確認したいと思います。ニ

ケヤ信条の学びは、そのキリストの教会の信仰を明らかにするものです。ニケヤ信条

の最後のことばは、「死者の復活と、来るべき世のいのちを待ち望みます」です。こ

の告白が言い表している信仰はどのようなことでしょう。

 まず、この告白の置かれている位置から考えると、この言葉は「罪の赦しのための

一つのバプテスマを認めます」に続くもので、これが「わたしたち」を三位一体の神

と結びつけ、「わたし」を公同の教会と結びつける接点、はじめ、であるとするなら

ば、「死者の復活」の信仰は、わたしたちの終極を示しているといえます。わたした

ちの生の終極は、また、わたしたちの生活の目標、目的ですが、それは、「死者の復

活」以下のものではない、ということです。この信仰が、「神の民の日々の生活の中

で、実際の福音となって生きた働きをしている」のでなければなりません。

 コリントの教会の中で、すでに、死者の復活の信仰がもっている衝撃的な内容、つ

まずきをやわらげ、軽く、薄いものにしようとする働きが動き始めていることを、パ

ウロは見抜いています。「キリストは死者の中から復活したと宣べ伝えられているの

に、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわ

けですか」。「キリストの復活」は歴史的な事実として認めても、それが、死者の復

活、信仰者もあずかる復活については、認めることができない、そのような終極を考

えることができない、軽く薄い信仰の事態を明るみに出しています。パウロはこのよ

うな信仰は、「無駄」だと断じます。わたしたちの宣教も無駄、あなたがたの信仰も

無駄だ、と。「無駄」とは「からっぽ」ということ、内容がない、根拠がない、真実

がない、力がない、実りがない、益もない、効果もない、ということです。復活の希

望なしの信仰は、「すべての人の中で最もみじめなもの」です。主イエス・キリスト

の死が「わたしたちのための死」であるのと同じように、キリストの復活も「わたし

たちのための復活」です。このように、キリストの死と復活に結びつくことこそ、わ

たしたちが生きるべき福音であり、伝えるべき福音があるのです。


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