ハバクク2:1-4;ローマ3:21-32
ニケヤ信条の最後の言葉は、「罪の赦しのための一つのバプテスマを認めます。使 者の復活と、来るべき世のいのちを待ち望みます」ということで、わたしたちの信仰 の成果や目標がどこにあるかについて信仰を明らかにしています。父、御子、御霊に おいて現された三位一体の神を信じることによって、わたしたちはどのような益にあ ずかるのか、何を目ざしているか、ということですから、わたしたちの救いは何かと いいことにも通じます。ハイデルベルグ信仰問答は、使徒信条の解説が終わったとこ ろで、問い59に「それでは、これらすべてを信じることは、あなたにとってどのよ うな助けとなっていますか」と問い、「わたしがキリストにあって神の前に義とされ、 永遠の命の相続人となっているということです」と答えています。神を信じることに よって得られる益を中心に考えることは御利益宗教で、人間の欲望の造り出す神、偶 像礼拝にほかなりませんが、しかし、「空をうつ拳闘はしない」と、パウロがいうよ うに、目ざすところのない信仰も、また、空しいといわなければなりません。では、 わたしたちの信仰は、わたしたちの生活にどのような実りをもたらし、何を目ざして 生き抜いて行くのか。これについて、神に義とされ、復活にあずかり、永遠の命をい ただくことというのです。これはニケヤ信条で言っていることと内容は同じです。 「神の義」とは「わたしの義」や「この世界の正義」ではなく、天と地を造り、命 の源である神の義であって、神の支配、秩序、意志、委託、愛によって示され、何よ りも、主イエス・キリストにおいて現されているものです。義と認められることは、 この神と正しく関わり合う関係にあると認められるということです。パウロは、この 神の義が、「律法とは別に、しかも、律法と預言者によって立証されて」示された、 こと、それは、「イエス・キリストを信じることにより、信じるものすべてに与えら れる神の義です。そこには何の差別もありません」といっています。この言葉に「福 音」のすべてが要約されています。信仰の目標は人間の欲望を満たすことではなく、 神に義と認められることだと明らかにされるだけでなく、義と認められる唯一の道が、 既にあります。主イエス・キリストのあがないの業、無償の恵み、それを信じる信仰 です。従って、わたしたちの信仰の目標は、ひたすらキリストを見上げることにあり ます。