詩篇110:1-7;マルコ15:33-41
ニケヤ信条の学びの最後に、ニケヤ信条で告白されているキリストについて、これ を更に詳しく説明するものとなっている「カルケドン信条」について、簡単にふれて おきたいと思います。これは451年に現在のイスタンブールの東岸にあるカルケド ンという町で開かれた第4回公会議で制定された信条で、キリストが真の神性と真の 人間性の両性を持ちつつ、一つの位格(ペルソナ)、自立存在(ヒュポスタシス)の 方であることが言い表されます。 「我々は皆、聖なる教父たちに従い、心を一つにして次のように考え、宣言(信仰 告白)する」と言うことに続いて、「この同じ方が神性において我々と同一本質の者 である。・・・神性においては、代々に先立って御父から生まれたかたが、この同じ 方が、人間性において、終わりの日に我々のために「神の母」なるおとめマリアから 生まれた。この方は、唯一かつ同一のキリスト、主、独り子として、二つの本性にお いて混同されることなく、変化することなく、分割することなく、分離されることな く知られる方である。・・・」という言葉が連ねられています。これによって、4− 5世紀のキリスト論をめぐる論争は一応の完成を見たといわれます。主イエス・キリ ストの神性だけを強調して人間性を認めない傾向、逆に、人間性だけを見て神性を認 めない傾向を完全に排して、両性において、「混同されることなく、変化することな く、分割することなく、分離されることなく」一つの同一の方、この方がわたしたち の救い主、主イエス・キリストだというのです。このように主を受け入れ、この主と の出会いがなければ、真の神との出会いはないとの主張です。「威厳によって卑しさ が、力によって弱さが、永遠性において可死性が」この一つのペルソナにおいて受け 取られた、ここに罪のうちに生きることから離れられないわたしたち人間にも救いが あることを告げています。これは、十字架につけられ、神から見捨てられたものとし て叫んで死んだイエスを、「本当にこの人は神の子だった」といったローマの百人隊 長の告白に通じます。神の子の人としての叫びがわたしたちの救いとなるのです。 「カルケドン信条」のキリストの本質を厳密にたずね求める姿勢は、ひるがえって わたしたち一人一人の人格や個性を深く認め、確立する大きな促しともなりました。 主イエス・キリストは誰かをみいだすが、人間性とは何かを見出すことになるのです。