出エジプト記1:15-24;ルァ16:1-13
イスラエルの民がエジプトで増え広がって行くのに不安を感じたファラオ王は、人 減らしの政策として、イスラエル人を強制労働や数々の労働によって酷使し虐待し、 神の祝福に真っ向から反逆し敵対しました。しかし、ますます増え広がって行きまし たので、ついに、ファラオはもっと過酷な生命の操作に乗り出しました。ヘブライ人 の助産婦を呼んで、男なら殺し、女の子なら生かしておくように命令をしたのです。 しかし、この命令は実行されることはありませんでした。助産婦たちは「いずれも神 を畏れていたので、エジプト王の命令どおりにはせず、男も生かしておいた」からで す。王が助産婦たちを呼んで問いただすと、「ヘブライ人の女はエジプト人の女性と は違います。彼女たちは丈夫なで、助産婦が行く前に産んでしまうのです」と、なか なかしたたかです。「民は数を増やし、はなはだ強くなった。助産婦たちは神を畏れ ていたので、神は彼女たちにも子宝を与えられた。」 この物語において、助産婦たちの不服従の決断がどれほどの生命の危機をおかした 大胆なものであったか、その決断に至るまでにどんな心の葛藤があったのか、想像の 翼を広げて見ましょう。エジプト王の生命の源である太陽神ラーのこの世における代 理者、すべての生命の守護者としての務めを持つものです。しかし、今この王は自分 の職務を捨てて生命を断つことにとりつかれています。一人の不安と恐怖が支配者の 不安と恐怖である場合、それは制度化され組織的な暴力の源となって、社会全体を暴 力的な構造の中に巻き込んで行きます。ヘブライの助産婦たちもこの構造の中に入る べき人として期待され、王の意志の実行者と定められたのです。これに対抗し、不服 従であることなどできるでしょうか。驚くべきことに、出来たのです。この人たちは。 なぜか。「神を畏れる人であったから」です。この場合、「神を畏れる」ということ は、この助産婦たちにどういうことを起こしたのか、そのことをよく思いめぐらす必 要があると思います。それは、子どもの命を救うという行動と直結していますから、 生命への畏敬を結びつく神への畏れです。その畏れはエジプト王とエジプトの社会全 体を相手にして、反逆する恐怖よりももっと強いもの、もっと根源的なものであった のです。そして、この畏れは、エジプト王が罪を犯すことを防ぎ止めているのです。 神は数百年の時を隔てて、ヘブライの女性の中に生きています。無力の抵抗の中に。