10月3日
2004年10月3日

「モーセの誕生」

出エジプト記1:22-2:10;コリントU4:1-15


 「ファラオは全国民に命じた。生まれた男の子は一人残らずナイル川に放り込め。

女の子は残しておけ。」エジプトに住むイスラエルの民は、この命令によって民族絶

滅の危機に直面することになりました。ファラオが感じた不安、恐れが、エジプトの

国の政策になり、このおろかな政策が組織的に施行され、おびただしい命がむなしく

消えてゆきます。人類の歴史において、また現代進行中の出来事において、このよう

な愚考は留まるところがありません。祝福そのものであるべき小さい者の命がゴミの

ように扱われるのです。この世界を神はどのようにお救いになるのでしょうか。どこ

に神の支配を見ることができるのでしょうか。

 モーセの誕生の物語は、この世界の中ですでに神の御業は始まっていることを教え

ています。それは世界を揺るがすような出来事や預言者や夢によってファラオの心を

変えさせるようなことによってではなく、一人の幼子の不思議な誕生物語によって世

界の歴史の方向を変える事態が始まっていることを告げるのです。これは、まことに

三位一体においてご自身を示される神にふさわしいことでした。レビ人の家庭に生ま

れた男の子、この時代の不運を一身に背負った子どもです。この子が「美しかったの

で」母親は三ヶ月の間隠して育てましたが、ついに持ちこたえることが出来なくなり、

小さな葦舟に赤ちゃんを入れてナイル川に流しました。『海のように深い痛手を負っ

た』この家族を誰が慰めることが出来るでしょうか。この悲しい物語は、ここで終わ

ったはずですが、神のみ業は始まったばかりです。その葦舟は、何と、最も危険な人

に見つけられてしまったのです。幼子を乗せた葦舟はファラオの娘に見つけられてし

まったのです。ところが、王女は、この赤ちゃんがユダヤ人の男の子であることを知

りつつ、「不憫に思って」この子を助けたばかりでなく、自分の子どもとすることに

し、『モーセ』(水の中から引き上げられた者)と名づけた、というのです。『不憫

に思う』という言葉は、「惜しむ」とか「責任を感じる」という意味にもなります。

主の御手は、愚かな政策を実行するエジプトの王宮のファラオに最も近いところにも

働いています。男の子をナイル川に放り込めというようなことを正義とすることは出

来ないと感じる感性、命を惜しむ心(それは神が人間を見る目そのものです)を、こ

の王女の心にも備えてくださっているのです。こうして、モーセはエジプトの王宮で

育ったユダヤ人として、その独特の位置が与えられることになります。救済の聖なる

歴史はこのようにはじまっています。


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