出エジプト記2:11-22;マタイ26:47-56
ユダヤ人の子として生まれ、ナイル川に流されているところを助けられてエジプト の王女の子として育てられたモーセは、どのように成長し、自己のアイデンティティ ーを形成していったか、これはとても興味の深いところです。この二つの大きく異な る民族、社会階層、宗教のはざまに生きたものが、どこに自分を確立するか、これは 容易ならざる課題です。聖書が記すモーセの歩みは簡単ですが、モーセの自己確立の 歩みが歴然とわかります。「彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働をしている のを見た。」モーセは、エジプト人としての背景を捨てて、はっきりイスラエル側に 立ち、ゆえなき差別のもとにいる「同胞」を解放しようと、立ち上がり、出て行き、 その事態を見る人として成人しています。安逸に流れる人ではなく、他者のために自 分の欲望を抑えることができる人であることは明らかです。解放者としての資質を備 えた人です。このモーセが同胞の解放のためについに行動を起こします。ヘブライ人 を虐げているエジプト人をひそかに殺し、砂に埋めること、そして翌日、仲間同士で 争っているヘブライ人の悪いほうをたしなめる、・・・。テロリストの小さな歩みが 始まっています。しかし、ヘブライ人のならずものがモーセに向かって「誰がお前を われわれの監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわ たしを殺すつもりか」と言った言葉を聞いてミデアンに逃げ出してしまったのはなぜ でしょう。大きな正義のために多少の生命を奪うことは許されると考えるのは革命家 の基本です。モーセは何を恐れたのでしょう。この恐れは、ファラオや他者のことを 恐れたのではなく、彼自身の心に注がれている髪の眼差しを恐れたからではないでし ょうか。このならず者の言葉によって気づかされたことは何であったか。それは自分 にとって同胞のため、正義のため、愛のためと言った論理は、他者の目から見れば、 単に自分を支配者として正義を自分のものとする行為に他ならないこと、自分を神の 位置に置く行為に他ならないものに見える、ということです。エジプトの王女に救わ れたモーセは、革命のために一人のエジプト人を闇のうちに葬る、これを正当化する 自分を見つめている神の眼差しを恐いと感じ、エジプトから脱出するモーセの感性、 この挫折した革命家モーセの感性こそ、健康な心を感じさせます。命を惜しむ主、聖 霊である神は、そのようにモーセに働いておられるのです。現代の世界は、どれほど この感性が鈍り、深く病んでいるかを思わされます。恐れのないことの恐ろしさを示 しています。