10月31日
2004年10月31日

「寄留者モーセ」

出エジプト記2:15-22;マタイによる福音書9:34-10:4


 ヘブライとして、奴隷の家に生まれ、エジプトの王女の子として育てられたモーセ

は、抑圧された者の側に立ち、解放者として生きる自分の立つべき場所と選んで立ち

上がりました。その結果はあえなく挫折。ミデアンの地に逃亡してしばらくの時を荒

れ野で過ごします。

 井戸の傍らでの牧歌的な救済劇。弱い立場の女性のために荒くれの羊飼い達をはね

のけて水を飲ませてやる。女系家族に迎え入れられ「とどまる決心をした」、「娘チ

ィッポラを与えた」、「男の子を産んだ」・・・。荒れ野でのモーセは、祭司エテロ

の家族に迎え入れられたエジプトの男、一個の家庭の救済者として急速に安定の場所

を見出したようです。しかし、生れてきた男の子にゲルショム「寄留者たち」と名付

けることによって、本当の居場所を見つけた人でないことをあらわしています。ミデ

アンの地で羊を飼いながら過ごしているモーセの心を貫いているのは「寄留者・旅人」

という言葉です。エジプトの王宮の豊かな洗練された文化を懐かしく思っているので

しょうか。いえ、その心にはエジプトにいる同胞のヘブライ人の圧政の下でうめき苦

しみ、叫んでいる声が聞こえていて、心休ませることができないのでしょう。

 人は、自分のいるべき場所を見出すことがない限り、深い安らぎを得ることはでき

ません。幼いときは母のいる場所、父のいる場所がわたしのいるべき場所です。大き

くなるとわたしの仕事のあるところ、夫や妻、子どものいる場所が自分の帰るべき場

所になります。しかし、モーセの心を休ませない寄留者意識はどこから来るのでしょ

うか。神の招いてくださっている本来の場所を見出さない限り、どれほど忠実に家庭

に生きる人であっても、公正の感覚にすぐれ、正義のために他者のために闘う人であ

っても、いつまでたっても帰るべき場所を持たない「ゲルショーム」寄留者・放浪者

であるのです。モーセはこのような人として、荒れ野で神の呼びかけの時に備えてい

ます。あのモーセにも、このようなときを備えているのです。ヘブライ人としての立

場、エジプトの王宮での生い立ち、その両方を架橋しうる特別な生い立ちが、彼をイ

スラエルの解放者として用いられる土台となったのではありません。神はご自身の民

の導き手とするために、ヘブライ人の中でもエジプトの王宮でもないところ、不毛の

地、荒野で、長い長い無駄な時間を過ごさせます。「飼うもののない羊のような有様

を深く憐れまれる神」は、ご自身の羊を養うために、羊飼いとなるべきものをこのよ

うに備えられ修行させます。


秋山牧師の説教集インデックスへ戻る

上尾合同教会のホ−ムペ−ジへ戻る